32軍壕周辺の埋没壕 負傷兵を閉じ込め爆破、遺骨は放置されたまま<ふさがれる記憶…壕の保存・活用の課題>9


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
第5砲兵司令部のトーチカを見つめる山田親信さん=2月、首里金城町

 県が保存・公開に向けて検討を進める、首里城地下の日本軍第32軍司令部壕周辺には複数の埋没した壕がある。その一つ、第5砲兵司令部壕内には遺骨が放置されたままとみられ、調査や遺骨収集を求める声も関係者から上がっている。

 県は1993~94年度に第32軍司令部壕の試掘調査を実施。その一環で第5砲兵司令部のトーチカ内部も掘削した。95年3月に出された報告書によると、トーチカ内部は、深度16メートルに達した時点で東側に巨大なガマが出現した。調査現場を訪れた元通信兵が(1)ガマは炊事部屋として利用(2)トーチカは砲兵大隊壕と連結(3)トーチカは(32軍壕の)第1坑道と連結予定だったが、工事途中で完成しなかった―と証言したという。

 この試掘調査の際、ガマ内部には、金物や遺骨などが確認された。県保護・援護課の担当者は「収骨はまだされていない。骨が残っている状態だと思う。収骨に向けて作業を進めたい」と話す。

 第5砲兵司令部には、県立第一中学校の3~5年生約145人が1945年3月28日、一中鉄血勤皇隊として配属された。生徒は壕の構築や武器弾薬の運搬などに従事。5月14日には6部隊に再編配属され、多くが首里から南部へ撤退する日本軍と行動を共にした。

 兼城一氏の「沖縄一中鉄血勤皇隊の記録 上」には、南部撤退の際、爆破を指示された玉栄貞信氏の証言が掲載されている。それによると、5月29日午前7時ごろ、第5砲兵司令部の壕には歩けない兵隊が約30人、同司令部配下にあった独立工兵第66大隊の壕には約70人がいた。敵が首里城に接近してきたため、二つの壕の開口部に爆雷を8個ずつ装てんし、爆破した。「身動きできぬ多くの負傷兵を閉じ込めた壕は一瞬のうちに崩壊した」と記す。

 一中学徒資料を展示し体験を伝えている養秀同窓会の山田親信さん(70)は第5砲兵司令部について独自に調査している。山田さんや県平和祈念資料館友の会の仲村真事務局長(66)の調査で、第5砲兵司令部壕のコの字型の片方の出入り口は、首里金城町の民芸館広場近くにあったとみられることが分かってきた。山田さんは「行政が調査で壕の場所を確定し、遺骨収集もしてもらいたい」と話す。

 首里城東側には第62師団司令部もあった。「第62師団司令部編成職員表」の「首里戦闘開始時より首里戦闘司令所における状況」によると、敵の上陸に備え首里赤田町に戦闘司令所を構築し、3月25日から5月25日まで戦闘を指揮した。

 昨年1月に第1回会合が開かれた県の第32軍司令部壕保存・公開検討委員会では、沖縄戦研究者の吉浜忍氏から、平和学習の行程作成に向けて「司令部壕周辺も調査する必要があるのでは」との提案もあった。今後、32軍壕の活用に向けた議論の中で、周辺の埋没壕の議論の進展も期待される。
 (中村万里子)