prime

沖縄で歯磨き粉の代名詞「コルゲート」 圧倒的シェアも日本基準適用後、姿消す<世替わりモノ語り>6


この記事を書いた人 Avatar photo 當山 幸都
コルゲートは「青春の全てだった」と振り返る仲田俊一さん=那覇市西の日本文化経済学院

 米統治下の沖縄ではありふれていたのに、日本復帰から半世紀たち、いつしか見かけなくなった日用品は少なくない。「歯磨き粉」を意味する英語と勘違いされるほど、各家庭で使われていたコルゲートはその一つだ。

 コルゲート歯磨き粉を製造する米コルゲート・パルモリーブ社は1950年代半ば、オリオンビール創業者の故具志堅宗精さんが率いた琉和貿易や全琉球商事を通して沖縄に進出した。当時すでに150年の歴史があった老舗企業は、各家庭にコルゲートの見本品を配布したり、1本買うとさらにもう1本おまけしたりと、既存業者がまねできない戦略で急速にシェアを拡大する。

 那覇市西の日本語学校「日本文化経済学院」の仲田俊一理事長(83)は、大学を卒業した1962年に琉和貿易に就職し、コルゲートの輸入代理業務を担当した。72年に日本コルゲート・パルモリーブ社に移籍し、98年の定年退職まで半生をコルゲートにささげた。「私の青春は全てコルゲートだった」と振り返る。

復帰前の琉球新報紙面には、毎月のようにコルゲート歯磨き粉の広告が掲載されていた(画像は1971年3月5日付朝刊)

 仲田さんはコルゲートの販売会社の全琉球商事とともに、小売店約6千軒を対象とした市場調査や広告企画などを手掛けた。虫歯予防の日(6月4日)の学校での歯磨き指導や歯科医師会との協力企画、本土旅行やコンサートチケット、賞金が当たるキャンペーンなど積極的な売り込みを展開した。

 71年3月の本紙には、沖縄で「実に65%以上ものご家庭で愛用」とのコルゲートの全面広告が掲載されている。仲田さんによると、92%のシェアを示す調査結果もあったという。

 だが、72年5月の“世替わり”で環境は一変する。日本復帰で旧薬事法(医薬品医療機器法)が沖縄に適用された。特にフッ素に関する規制は厳しく、復帰前の沖縄で主流だった、フッ素配合量が1千ppmを超えるコルゲートは輸入できなくなった。

 流通のありようも大きく変化した。日本の大手メーカー製が浸透し「本土独特の文化に対応して市場を開拓する難しさがあった」(仲田さん)という。コルゲートは日本の規格に合わせた輸入品か、日本国内で生産された製品が出回るようになるが、沖縄での市場は縮小していく。

 仲田さんには、海外から多くの物が直接入ってきた復帰前の沖縄が懐かしい。「貿易会社がいくつもあり、自由貿易で外国とつながっていた。まちやぐゎーのおばさんが英語を話したり、自分でLC(信用状)を組んで物を仕入れたりと、本土より国際化していて活気があった」

 コルゲート社の歯磨き粉は今も世界一のシェアを誇るが、日本法人の日本ヒルズ・コルゲート社は2008年3月、国内での取り扱いを終了した。復帰時に“壁”となったフッ素配合量の基準は17年に引き上げられたものの、コルゲートは県内の店頭から姿を消した。

(當山幸都)