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「大和の世からアメリカ世」名文句は時を超え…島唄の神様、嘉手苅林昌さん直筆の琉歌<世替わりモノ語り>7


この記事を書いた人 Avatar photo 稲福 政俊
嘉手苅林昌さんが公演前に書き出した琉歌の原稿。晩年はほとんどひらがなで書いたが、若い頃は漢字も使っていたという(小浜司さん所蔵)

 「唐(とう)の世から大和(やまと)の世 大和の世からアメリカ世 ひるまさ変わたる 此(く)ぬ沖縄(うちなー)」

 朝貢貿易で独立を保った琉球王国時代から、琉球処分を経て沖縄戦、戦後は米軍統治へ。移ろう沖縄の姿を風刺した島唄の名曲「時代の流れ」は、島唄の神様と称された嘉手苅林昌さん(1920~99年)が56年に作詞した。翻弄(ほんろう)され続ける沖縄を的確に表現した名文句は、時代を超えて県民の心を打つ。

 嘉手苅さんは民謡界で確固たる地位を築いたが、私生活では酒とギャンブルにおぼれた一面も。一方、性格は無邪気で人なつっこく、その裏腹さもあって仲間からもファンからも愛された。天性の歌声と型破りの言動で「風狂の歌人」とも呼ばれた。

普久原朝喜・京子夫妻の古希祝いに出演した嘉手苅林昌さん。肌身離さぬ三線は生涯の友だった=1975年、沖縄市の中頭教育会館(C)K・KUNISHI

 琉歌のリズムに乗せる島唄は歌詞のバリエーションが多く、嘉手苅さんは同じ場所で同じ唄を二度は歌わないというこだわりを持っていた。公演前は机に向かって無数の琉歌を書き出し、その一部を舞台で披露した。

 嘉手苅さんと親交が深かった音楽プロデューサーの小浜司さん(62)は、嘉手苅さん直筆の琉歌の原稿を保管している。「同じ唄を歌わないのは客を飽きさせない工夫だろう。ただ、失敗もあった。上の句を唄っている途中で『前に歌ったのと同じだ』と気付いたんだろうな。別の句の下の句を慌ててくっつけて、意味不明な歌詞になることもあったよ」と笑う。

 嘉手苅さんの人生は沖縄の歴史のように波瀾(はらん)万丈だ。幼少期は歌人だった母ウシさんの民謡を子守歌に育ち、民謡にのめり込んだ。10代後半で大阪へ。20歳で帰省したがすぐに出稼ぎで南洋へ渡った。移民先は南洋のクサイ島。開拓しながら軍向けの食料を供給した。

 しかし、戦況の悪化に伴い現地で召集され、肌身離さず持っていた三線を島に隠した。敵の流れ弾が足を貫通し、野戦病院で生死をさまよった。友人は「イモを盗んだ」として日本兵に連行され、帰ってこなかった。

嘉手苅林昌さんの公演パンフレットを眺め、嘉手苅さんとの思い出を語る小浜司さん=4日、国頭村内

 大好きな民謡と大切な友人を奪った戦争。小浜さんは、嘉手苅さんの生きざまに影響を与えたのは「母と沖縄戦」と見る。

 復帰後、沖縄民謡を県外にアピールする「琉球フェスティバル」の宣伝のため、嘉手苅さんがラジオ出演した際、クサイ島で友人を連行した日本兵を名指しし「出てこい」と叫んだという。

 「時代の流れ」の名文句は、多くの音楽家や文筆家が引用し、独自の解釈を加えてきた。ただ、変幻自在に島唄を操った嘉手苅さん自身が、この唄をアレンジして歌うことはほとんどなかった。小浜さんは「アメリカ世の後に『うちなー世』は来ていないと思っていたのではないか」と、嘉手苅さんの気持ちを推し量った。

(稲福政俊)