沖縄の長寿三大食は「豚肉、豆腐、昆布」とされる。しかし米統治下の沖縄では、三大食をふまえつつ、米国と日本本土の食文化の影響も受けてきた。豆腐にツナ缶のチャンプルー、独自の進化を遂げたタコライスもあれば、本土資本の大型店舗がもたらした「納豆」「ヨーグルト」などの新食品も復帰後、柔軟に取り入れ定着している。世替わりがもたらした沖縄の食文化を振り返る。
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沖縄のソウルフードとして、県内外で知られるタコライスは1984年、金武町のパーラーで誕生した。発案者は故・儀保松三さん。孫でキングタコス代表の島袋小百合さん(46)は「家族の生活を支えようと懸命に働く中で生み出された」と明かす。
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島袋さんによると、儀保さんは南風原出身。米兵を相手としたレストランなどを経営していた。米兵のトラブルに巻き込まれることもあり、コザや辺野古などを転々とした。60年代、キャンプ・ハンセンの使用開始に伴い、金武村(当時)の新開地の外れにバーを開いた。儀保さんには3人の子どもがいた。借金なども抱え、暮らしは決して豊かとは言えなかった。
バーやレストランは、やや高級路線で経営していたが、本土復帰、変動通貨制導入による円高などの影響で状況が変わる。「米兵の客足が途絶えるかもしれない。家族の生活を守らなければ」。儀保さんは安価で商品をすぐに提供できるパーラーにシフトチェンジした。
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「お金に余裕のない米兵にも満腹感を味わわせたい」と考え、生み出されたのが、白米にタコスの具を乗せたタコライスだった。当初は「変な食べ物」と周囲からやゆされたが、米兵から好評を得て口コミで広がっていった。
島袋さんは「努力と挑戦を続け、家族を支えた祖父を心から尊敬する」と語る。タコライスには、復帰後の社会情勢に翻弄(ほんろう)されながらも、懸命に生きた沖縄人の軌跡が刻まれている。
(長嶺晃太朗)
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