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鉄道がない沖縄で「デゴイチ」が結んだ縁…ある夫婦と国鉄職員の物語<世替わりモノ語り>番外編 


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与儀公園に展示されているD51 222=4月13日、那覇市

 1972年7月31日、当時与儀小学校5年生の城間悟さん(60)は、北九州市内でデゴイチの愛称で親しまれるD51型蒸気機関車を初めて目の当たりにした。「すごく大きくて重そう。これが本当に走るの?」。当時の開南小学校5年生の城間(旧姓・上原)えり子さん(60)は「大きくて圧倒された。黒々として迫力があった」と振り返る。日本復帰を果たした沖縄の子どもたちを国鉄職員らが中心になって九州に招いた。九州入りした那覇市内の児童約70人は職員宅にホームステイ。8泊9日の日程にはデゴイチ見学もあった。

 悟さんとえり子さんは那覇高に進むと、共に卓球部に入部。九州でデゴイチを見た共通の思い出があることを知る。その縁もあって結婚した。

 招待のきっかけになったのは、国鉄で旅行商品の企画などを担当していた山田辰二郎さんが「本土復帰祝賀記念団」と銘打ち、復帰を迎える沖縄を訪れる旅行商品を発案したことだった。これを家族に話したところ、娘たちが沖縄に行きたがった。山田さんは「沖縄の子どもたちも本土に来てみたいだろうな」と思ったという。山田さんを中心に国鉄の門司鉄道管理局の有志が取り組んだ。

デゴイチの譲渡式後、記念撮影する那覇市内の児童とその家族ら=1973年3月8日、那覇市の与儀公園(城間悟さん・えり子さん提供)

 旅の間、「里親」の国鉄職員宅に泊まり、北九州市を中心に児童らは、プロ野球やサーカスを楽しんだ。門司でデゴイチを初めて見た子どもたちから「うわ! すごい!」「友達にも見せたい」と声が上がった。えり子さんは、大きく黒々とした車体に圧倒されたことを機関区に漂う油や石炭などの独特の匂いとともに覚えている。

 旅を終え、那覇に戻った児童らは里親の国鉄職員にお礼状を送った。多くが沖縄に鉄道を敷いてほしいとつづっていた。再び山田さんが核となり、里親になった職員らを中心にデゴイチを沖縄に送る運動が始まる。

 九州の国鉄が労使一体となり、全国の国鉄マンに呼び掛けた。後に立ち上がった「贈る会」発起人には、後に参院議員も務める伊江朝雄氏も国鉄九州総局長として名を連ねている。全国紙にも取り上げられ、お小遣いをカンパする児童も出てくるなど、国鉄内外に広がった。移送費目標額の1千万円を上回る1400万円が寄せられた。九州を34年間無事故で走った名機で、引退・廃車が決まっていた「D51222」を贈ることが決まった。

与儀公園に展示されているD51の車両を見て回る城間悟さんとえり子さん夫妻=4月13日、那覇市(許可を得てフェンス内で撮影)

 73年3月8日に那覇市の与儀公園にデゴイチが設置された。セレモニーには九州に行った小学生らも招かれ、汽笛を鳴らす場面もあった。えり子さんは「あのデゴイチがやって来た」とワクワクし、汽笛に沸いた人々の様子を覚えている。悟さんは「本当に来たんだと信じられない思いだった」という。

 与儀公園近くに住む悟さんは公園側を通って出勤する。「あの車体を見るだけで人生の半分以上を思い出せる」と語る。ホームステイで世話になった里親には大学入学や結婚、子どもの誕生など節目で報告をするなどして交流を続けた。

 えり子さんによると高校時代、デゴイチ前で悟さんと待ち合わせをしたことがあった。子どもの県外進学の際に里親の世話になったことなど、思い出話は尽きない。

与儀公園に展示されているD51の車両を見て回る城間悟さんとえり子さん夫妻=4月13日、那覇市(許可を得てフェンス内で撮影)

 悟さんは「よくもっているな」と黒光りする車体を見上げる。「本土の人たちが沖縄に抱いた強い思いがデゴイチに詰まっている。これからの世代にそのことを伝えるためにもできるだけいい状態で残してほしい」

 えり子さんは半世紀をともに過ごしたデゴイチに「沖縄全体も個人的にも激動の50年。見守ってくれてありがとうと伝えたい」と視線を送った。孫たちにも思い出を伝えていく考えだ。「復帰して良くなった点もあるが、まだまだの部分も。孫たちが沖縄に生まれて良かったと思ってもらえるよう少しでもできることをやりたい」とデゴイチの前で誓った。 

(狩俣悠喜)