有事の避難、沖縄戦はどうだったか?対馬丸や南部撤退…疎開できずに犠牲者多数


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 1945年の沖縄戦では戦火に追われて本島南部に避難した住民が、日本軍の南部撤退によって日米両軍の戦闘に巻き込まれ、多数の犠牲者を出した。日本軍が大本営直轄の沖縄守備隊として創設した第32軍は44年7月、県民の県外疎開を政府や県に要請したが、約59万人いた県民のうち対象は軍の足手まといになるとされた女性や子ども、高齢者など10万人にとどまる。国民保護が計画通りに進められたとしても、住民の命が守られるのか疑問が残る。

 45年5月下旬、第32軍は首里の司令部を放棄し、南部の喜屋武半島へ撤退することを決定した。この時、半島には住民が多数避難していたが、軍は本土防衛のために持久作戦の継続を選択した。一連の戦闘では日本兵が戦闘継続などを目的に壕に隠れていた住民を追い出した。そのため住民は砲弾が飛び交う戦場にさらされることになり、さらに米軍の侵攻で狭い範囲へ次第に追い詰められたことで多数の住民が犠牲となった。

 県民の北部疎開は44年12月に第32軍が県に提示し、県は45年2月に県民10万人の疎開計画を出した。県は食糧確保などに取り組んだが、食糧は不足し、飢えや病気で多数の住民が犠牲となった。さらに米軍に保護された中部の住民約30人が、大宜味村渡野喜屋(現在の大宜味村白浜)で敗残兵に殺された「渡野喜屋事件」など、主に食糧を目的とした日本兵の住民への加害行為も発生した。

 疎開を巡っては44年8月に本土へ向かう学童らを乗せた「対馬丸」が撃沈され、1484人(氏名判別者数)が犠牲となった。しかし日本軍は当時撃沈の事実を隠し、生存者にも口止めしていた。
 (武井悠)