島田賛美の論調 慰霊塔や顕彰碑建立の動きも 研究者らは戦争責任を指摘<島守の功罪―沖縄戦下の行政―>下


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2015年に建立された「島田叡氏顕彰碑・友愛グラウンド碑」

 米軍の激しい攻撃で焦土と化した沖縄本島南部では、遺骨を拾い集めることから戦後の復興が始まった。遺骨は野ざらしでほとんどが住民だった。沖縄戦の組織的戦闘終了から半年後、当時16歳の翁長安子(92)は泣きながら、子どもと母親とみられる骨を拾った。数万体の遺骨を納めた「魂魄(こんぱく)の塔」が1946年2月に建立され、旧制中学校・師範学校から動員された学徒らを慰霊する「沖縄師範健児之塔」が同3月に、「ひめゆりの塔」が同4月に続いた。

 こうした動きを見て元県庁職員らは、島田・荒井を顕彰する慰霊塔の建立を悲願にした。中心になったのは島田の下で人口課長として疎開業務に携わった浦崎純(1975年死去、享年74)であった。51年3月、塔建立の寄付を呼び掛ける本紙告知文には、平良辰雄沖縄群島知事、志喜屋孝信琉球大学長の名と共に5新聞社の社名が連なる。同年6月、島田夫人を招いて除幕式が行われた。

 島田賛美の論調は50年代以降、本土メディアによって広められ、顕彰活動は島田・荒井の出身地で盛んに行われるようになっていく。県内では塔の建立以降、目立ってなかったが、2013年に県内野球団体などが「島田叡氏事跡顕彰期成会」(会長・嘉数昇明元副知事)を設立し、奥武山公園内に顕彰碑を建立するなど再び活発化している。

 この間、島田が敷いた戦時行政が軍に協力した内実が明らかになるにつれ、島田の戦争責任を指摘する声は強まっている。その一つが北部疎開だ。名護市史編さんに携わり、北部で長年聞き取り調査をしてきた川満彰は、食糧は45年3月にすでに避難民に行き渡らなくなっており、飢えやマラリアで大勢亡くなったとし、「北部疎開は失敗だった」と断じる。

飢餓で亡くなった住民たち。米軍の写真説明によると、多くの沖縄の住民がこのような状態で見つかったという(1945年6月14日撮影、県公文書館所蔵)

 06年には、島田が軍との間に旧制中学校生・師範学校生の鉄血勤皇隊の編成、活用について覚書を交わしていたことを研究者が突き止めた。前任の知事は住民の戦闘参加に否定的だったが、後任の島田は、防衛召集の対象年齢を下回る学徒や地域住民ら若者の戦場動員を主導した。

 沖縄戦での県民の犠牲者数は、県外出身兵のそれを上回る。川満は「島田が『国体護持』のため軍に協力し、住民の被害を拡大したことは、忘れてはならない戦争責任だ」と指摘する。島田は最初から住民に無抵抗での投降を呼び掛けず、45年4月27日にも戦意高揚を市町村長に命じている。南部を転々とした後、轟の壕を出る際に女子職員に小声で米軍に投降するよう伝えた。

 島田の顕彰は戦争の美化につながるという懸念も平和団体や沖縄戦研究者間から出ている。慰霊塔を建立した「島守の会」の理事を務める島袋愛子(74)は「戦争を正当化していこうということに結びつけられたら会としても心は痛い」と話す。戦後、沖縄戦の継承は“殉国美談”の語りから住民視点へと変わってきた。地道な住民への聞き取りで積み上げられた沖縄戦研究と報道の成果でもある。川満は「『島田が知事になって住民の被害を最小限に抑えられた』という物語は事実と逆だ。2人をたたえることで功罪の『罪』の部分が全て消されることになる」と警鐘を鳴らす。
 (敬称略)
 (中村万里子)