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自責の念から喜びへ 成長と祝福、心の支えに 挑戦するわが子、広がる夢<手のひらの命・低出生体重児の今>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
生後6カ月の栗原雄さん(提供)

 「赤ちゃんを包む膜が出ている。生まれてしまったらこの病院ではどうしようもない」。2015年7月。栗原涼子さん(43)=北谷町=は、前日の夜から続く少量の出血に異変を感じて病院に行くと医師にそう告げられた。

 当時妊娠24週0日。その1週間前に結婚式を挙げたばかりで、少し生活が落ち着いたところだった。ぽこぽことした胎動を感じ始めていたが、まだ親になる実感は薄かった。そんな中で突然の異変。「無理がたたったのか。結婚式のことで頭がいっぱいだったから」と自分を責めた。

 搬送先の琉球大学病院で胎児の肺の発達を促す注射を2回受け、お産に備えた。その2日後、長男の雄さんが生まれた。

 体重は676グラム。手は大人の指の、第1関節ほどの小ささだった。夫の恒雄さん(46)は「急ではあったけど、会えるのが早くなって単純にうれしいなっていう気持ちだった」と振り返る。一方で、涼子さんはおなかの中で十分に育ててあげられなかった自責の念にかられていた。

 それでも新生児集中治療室(NICU)の看護師に「ママ」と呼び掛けられたり、病院スタッフや友人などから「おめでとう」とメッセージをもらったり、誕生を喜ぶ恒雄さんを見たりするうちに心境が変化していく。涼子さんは「周りの人が喜んでくれたことで『これは喜んでいいことなんだ』と思えるようになった」。毎日面会に通い雄さんの頑張る姿を見て、そのかわいさや成長を感じられたことも喜びにつながり、心の支えになった。

前列左から栗原雄さんと妹の凛さん。後列左から恒雄さん、涼子さん(提供)

 だが入院中は不安や危機の連続だった。出生後に動脈管が自然閉鎖しない病気「動脈管開存症」や「未熟児網膜症」の治療などに加え、涼子さん自身も母乳の出が悪いことに苦しんだ。それでも雄さんの頑張りや病院スタッフの支えで乗り越え、新生児治療回復室(GCU)で生後百日のお祝いをした翌日、2426グラムで退院した。

 医師からは雄さんの発達が遅くなる可能性や未熟児網膜症による弱視などの後遺症があるかもしれないと言われていた。

 雄さんは3歳ごろになってもしゃべらなかった。発達を促すため、主治医の勧めで地域の療育センターに通った。保育園では保育士の数を増やして雄さんに担当の保育士をつける「加配保育」が受けられるよう手続きをした。気になっていた発語は、入園を機に増えていった。児童発達支援など、発達を促すために良いと思われることは積極的に利用した。

 現在、雄さんは小学1年生。入学前は就学猶予制度を申請するか迷ったが、保育園の友達との関係を重視し、通常通り進学した。だが環境の変化や学びの面で不安があったことから、少人数できめ細やかな指導をしてくれる特別支援学級に在籍することを選んだ。通常学級か特別支援学級かは学年ごとに選べることから、今後も雄さんの成長に合わせて必要な場所を相談していくつもりだ。

 今では発語を心配していたことを忘れるくらいおしゃべりが止まらなくなり、学校での出来事も楽しそうに報告してくれる。放課後等デイサービスや公文教室などにも通い、いろんな刺激を受けて成長している。弱視の治療も続けている。運転免許が取れたら、雄さんの運転で家族一緒にドライブへ行くのが夢だ。

 恒雄さんは「とても優しくて素直な子に育ってくれている。このまま成長していってほしい」と顔をほころばせる。涼子さんは「なんでも楽しくチャレンジしていってほしい。これからが楽しみ」と笑顔を見せた。
 (嶋岡すみれ)