原発収束へ走り続けた10年超 東電元社員の平さん(那覇出身)「多くの人に支えられ」


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JERA広野火力発電所の事務所入り口に立つ平裕一さん=10日、福島県広野町(撮影時のみマスクを外しています)

 防護服にゴム手袋、マスクを身につけ、過酷な環境で勤務してきた。東京電力元社員の平裕一さん(38)=那覇市出身=は、10年以上にわたり福島第1・第2原発で廃炉などの収束作業に携わった。現在は「JERA」社員として原発の南にある福島県の広野火力発電所で働く。東日本大震災発生から11日で12年。「いろんな苦労があったが、社内外、協力企業や地元の方々に助けてもらって、なんとか僕なりに復興の力になれたと思う」と振り返った。

 昭和薬科大学付属高時代から原子力に関心があり、名古屋大で核物理工学を学んだ。興味がある分野を仕事にしたいと考え、2009年に東電にエンジニアとして入社。最初に配属されたのが福島第2原発だった。

 11年3月11日は金曜日。午後から休みを取り、東京へ向かう電車の中だった。午後2時46分、巨大地震が起き「ぐわんぐわんと揺れた」。電車を降り、いわき市のJR常磐線久ノ浜駅まで歩いた。「津波が来る」と聞き、海を見ていると波が押し寄せるのが見えた。急いで高台の中学校へ避難した。

 携帯電話は不通で、避難所の中学校にあった公衆電話から沖縄の両親に無事を伝えた。原発の状況は断片的にしか入らず「何重にも安全装置がある。どこかで止まってほしい」と願った。

 移動手段がない上、原発周辺は立ち入りが規制された。避難所に来た自衛隊員に「第2原発のエンジニアです。現場に戻りたい」と話したが、望みはかなわなかった。同僚経由で上司と連絡を取り、震災から8日後に第2原発に入った。

 第2原発は震災発生時、1~4号機の全てが稼働していた。地震と津波の被害を受けたが、炉心の損傷は免れ、冷温停止した。「第1よりまし」だが、厳しい環境。当時住んでいた富岡町の社員寮は避難区域になり、入れない。発電所の廊下で寝泊まりする生活が続いた。シャワーはなく、髪形を丸刈りにした。


「福島は第2の故郷」 東電元社員の平さん(那覇出身) 廃炉向け一翼担う