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台湾「2・28事件」遺族 「沖縄と対話を重ね、互いの理解を深める」 平和な未来へ一緒に答えを <東アジアの沖縄・第1部「有事」への眼>①


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基隆港にかかる和平橋。左側が和平島(ウチナー民間大使の陳保佑さん提供)

 蕭瑞雲(シァオルェイユン)さん(87)が生まれ育った和平島には戦前、多くの沖縄出身の漁師がおり、台湾最大の沖縄人集落があった。祖父の宗榮(ゾンロン)さんは漁船の網元で、沖縄の漁師たちを雇い、わが子のように面倒を見ていたという。

 終戦で蒋介石率いる国民党が政権を掌握。経済や治安が悪化する中、1947年2月28日を機に民衆の怒りが広がった。鎮圧のため47年3月8日、国民党軍の兵士らが基隆港に上陸。若い男性らが次々に殺害される中、島の住民たちはパニックに陥った。

 自宅にとどまるか、船で逃げるか―。混乱の中で宗榮さんは、30歳くらいだった次男と高校生の三男の息子2人を漁船に乗せ、海に逃がし、自身と長男は自宅にとどまった。しかし逃がした2人が戻ることはなかった。

 当時、基隆だけで2千人以上の住民が犠牲になったとされる。国民党軍が漁船を押収した記録があり、2人は殺害されたとみられる。行方不明になってまもなく、宗榮さんは心を病み後を追うように亡くなった。最期の言葉は「息子たちは戻ってきたか」だった。

 蕭さんが抱えてきた思いを2016年に初めて聞かされた許仁碩(シュジェンシュオ)さん(36)は「まさか自分の家族が」と驚き、年月を経ても消えない苦しみを実感した。北海道大で植民地統治下の台湾の人権問題について研究。日本で「台湾有事」が報じられる中、許さんは「どう思うか」と聞かれることも増えているという。

 許さんは台湾と沖縄の人々は「物理的距離は近くても、お互いにあまり歴史や現状を知らない」と感じている。台湾では、沖縄が基地の過重な集中に反対し、軍備増強で戦争体験者らの間で懸念が高まっていることも知られていないという。

 双方の思いを知れば知るほど深まる悩みでもある。「台湾の人が『米国が正義で日米同盟が守ってくれる』というのは楽な考え。でも台湾のために沖縄が軍事基地を我慢しろ、という未来にも、台湾が民主主義を奪われるのを我慢しろ、という未来にも反対。どちらも深刻な人権侵害になる。だからこそ悩ましい」

 解はあるのか。急ぐ記者に、許さんはしっかり対話をしてお互いに理解を深めることが大切だと強調する。「目の前に答えが用意されたものではない。これまで経験しなかった状況で全く違う情勢に直面している。一番楽で簡単な道は、必ずしも正しい道とは限らない。お互いに悩みや課題を認識し、一緒に答えを探しに行きましょう、という連帯ができれば大変結構なことだと思うんです」
 (中村万里子)


沖縄と台湾、国策に虐げられた痛み重ねて 「人権問題」共に苦しまない未来望み<東アジアの沖縄・第1部「有事」への眼>①