父の沖縄戦手記を本に きっかけとなった別れ際の涙、祖母の最期が記されていなかった理由 糸満・伊是名さん


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父・朝輝さんの手記を基に沖縄戦の本を自費出版した伊是名朝弘さん=4月19日、糸満市

 【糸満】糸満市の伊是名朝弘さん(62)はこのほど、父の朝輝さん(2012年没、享年94)の手記を中心に、父から聞いた沖縄戦についてまとめた本「伊是名家の戦世(いくさゆ)とその周圏~沖縄 骨のバトン」を自費出版した。朝輝さんの母オトさんが艦砲弾で命を落としたことや、朝輝さんの無念の思いを克明に記している。

 本は、父親が沖縄出身で遠縁に当たる渡久山尚子さん(79)=札幌市=と共に出版した。渡久山さんはルーツをたどって10年に朝輝さんらを訪ね初対面した。別れ際、朝輝さんがふいに涙をこぼし「母は沖縄戦で、砲弾で死んだ」と語ったことが、渡久山さんの心に引っ掛かっていたという。

 21年春、朝輝さんの手記を朝弘さんが保管していると知り、渡久山さんが「一人一人の沖縄戦体験は重い。手記の存在を伝えよう」と出版を提案した。

 朝輝さんは那覇市首里金城町出身。幼くして父を病気で失い、オトさんに大切に育てられた。1938年、20歳で補充兵として中国戦線に参加するが、肺結核を患って永久兵役免除となり、満州での出稼ぎを経て、44年に母の待つ沖縄に戻った。

 レポート用紙3枚に手書きされた朝輝さんの手記は、45年4月下旬、第32軍による南部への避難命令を受けてオトさん、妻文子さん(昨年12月没、享年96)と首里から南部へ避難した過程を記す。糸満町(当時)で砲弾の破片が当たりオトさんが脚、文子さんが肩を負傷。朝輝さんはオトさんを背負って歩き、最終避難地の喜屋武村(同)福地の屋敷跡に身を隠した。

沖縄戦体験を手記に残していた伊是名朝輝さん(朝弘さん提供)

 手記はここで終わっている。6月14日、屋敷跡に艦砲弾が着弾し、オトさんが吹き飛ばされ亡くなったことを、朝輝さんは書かなかった。「祖母の爆死を、父は記憶から消したかったと思う。医療知識があれば手当てできたのに、と自分を責めていた」と振り返る朝弘さん。父から聞いた記憶を基に、オトさんの最期を、朝輝さんの目線でこう記した。「虫の息ではあったが、どうしたらいいのか、あまりの悲惨さに立ち尽くし、手をこまねいてただ死ぬのを待つだけの自分の無力を恨んだ」

 朝輝さんは戦後、長男の朝弘さんに戦争体験を繰り返し語った。朝弘さんは「父は『戦争に正義はない。犠牲になるのは国民だ』と言っていた」と振り返る。ロシアのウクライナ侵攻などを踏まえ「本を通じて沖縄で起きたことを知り、自分にとっての沖縄戦や、戦争について考えてほしい」と語った。

 95年から沖縄に通い、沖縄戦について調べた渡久山さん。文献を基に、日本兵による住民虐殺や「集団自決」(強制集団死)などの史実も盛り込み沖縄戦の経緯をまとめた。「戦場にされたばかりに、沖縄は今も米軍基地が居座り住民を苦しめている。歴史を知ってほしい」と話した。A5判120ページ、税込み800円。問い合わせは渡久山さん、電話080(5830)7819。
 (岩切美穂)