▼前編「射撃音響き、軍事日常化の集落 戦時の爆発事故を想起」から続き
1944年10月10日、宮古島も10・10空襲に遭う。その後も空襲があり、45年に入り空襲は激しさを増す。戦時中、地上戦がなかった宮古島では、空襲や艦砲射撃が繰り返された。空襲の度に、保良区の住民は集落近くにある自然壕「フカスクアブ」などに避難した。艦砲射撃は日本海軍と陸軍が造った空港3カ所を狙っていたという。
子ども2人を含む複数人が犠牲になった弾薬爆発を耳にした平良長勇さん(84)の家は、空襲で放たれた焼夷弾(しょういだん)によって火事になり、焼失した。家族は残った石垣に柱を建てかけて雨をしのいだ。「母親は幼い私を雨風がしのげる洞穴に置いて芋を探しに行ったりした。貧しく大変な思いも散々した。これを繰り返してはいけない」と実感を込めて語る。
同区で2019年に始まった陸上自衛隊の弾薬庫建設で、平良さんは資材搬入の出入り口付近に座り込み、建設反対を訴えた。「戦時中は『沖縄のため、宮古島のために闘いなさい』と日本兵から何度も言われた。しかし、日本兵が守ろうとしたのは国土であって、住民の命ではなかった」。
国は中国の軍備拡大や台湾有事を強調し、戦時中に弾薬爆発を起こした同区に再び弾薬庫を造った。戦前と同じように軍の施設があることで住民が再び被害に巻き込まれるのを危惧する。国が弾薬庫の必要性を訴えていることに触れ「弾薬庫がなければ、中国に攻撃されないのか。違う。弾薬庫があるから標的になる。何もなければ、こちらを攻撃する理由はなくなる」と憤る。
生まれ育った保良で暮らす平良さんは、素朴な疑問を投げかける。「戦争をしたら、軍事産業に関わる人たちはもうかるだろうが、庶民は必ず貧困になる。『国民のために』とよく言うが、戦争とは一体誰を守るためのものなんですか」(友寄開)