観光客でにぎわう石垣市の繁華街を抜け、サザンゲートブリッジを渡ると広がる市南(ぱい)ぬ浜町(はまちょう)。北朝鮮の「衛星」発射への「備え」として、航空自衛隊の地対空誘導弾パトリオット(PAC3)が空に向けられている。
石垣島の中央にある於茂登岳の南側ふもとには、陸上自衛隊石垣駐屯地が3月に開設された。自衛隊車両が公道を走り、迷彩服姿の隊員が移動する姿が「日常」となりつつある。
波照間島出身の慶田盛安三さん(82)=石垣市、元竹富町教育長=は「武器が置かれ、戦争の準備が着々と進んでいる感じがする」と眉をひそめる。
78年前の沖縄戦で八重山地域の住民は、日本軍の命令でマラリアの有病地である山間部へ強制疎開させられ多くの犠牲者が出た。波照間島では当時の人口の99%が罹患(りかん)し約3割が亡くなった。
4歳だった慶田盛さんも波照間島から西表島東の由布島に疎開した。当時は「幼くて旅行のような気分だった」。大人たちは飛行機の姿や照明弾におびえ「すぐに防空壕に入れ」と尻をたたかれたが、「幼くて、大人が言う戦争の怖さを全然知らなかった」と振り返る。同じ年頃の子どもたちと「海で泳いだり、タコを捕ったり、やまんぐー(わんぱく)して過ごした。私たちにとっては(由布島は)楽園みたいだった」
防空壕の近くにアダンがあり、それを日本刀でバサリと切って見せた。「山下虎雄」という軍人だった。幼心に「日本刀はこれほど切れるのか」と驚いた記憶がある。山下は子どもに対し怖い態度はとらなかったが、大人たちから「スパイ」という言葉を聞いた。「怖い人だから近づくなと言われた」
竹富町史などによると、山下は波照間島に青年学校の指導員として赴任したが、本名を酒井喜代輔と言い、スパイ活動などを専門とする陸軍中野学校を出た軍人だった。
波照間島出身の慶田盛安三さん(82)=石垣市、元竹富町教育長=が4歳だった沖縄戦当時、強制疎開先の由布島で見た軍人。それが波照間島に青年学校指導員「山下虎雄」として赴任した陸軍中野学校出身の軍人だった。離島で秘密戦に取り組むための残置諜者だった。
沖縄県史には山下を下宿させていた人の証言として子ども好きな「大変よい人だった」という記録がある一方、軍の命令に従わないと「非国民」と高圧的な態度を示したという別の証言もある。
軍隊のない島に軍人が来たことで、状況は一変した。45年4月8日、日本軍は波照間の住民に西表島南風見への疎開を命じた。住民は南風見がマラリアの有病地帯だと反対したが、山下は「反対する者は切り捨てる」と、軍刀を振り回したと竹富町史に記されている。住民の大半は南風見に、一部は古見とマラリアのない由布島に渡った。
南風見ではマラリア患者が急増し死者が続出した。8月に疎開が解除されたが疎開地から保菌者が帰島したため、マラリアのなかった波照間島で罹患(りかん)が相次いだ。
慶田盛さんも発症し、40度超の高熱が続いた。「母が毛布で私の体を押さえても震えが止まらなかった」。ヨモギの絞り汁を解熱剤として飲んだり、芭蕉の幹で体を冷やしたり。ソテツや小さなイモで食いつないだ。
島には亡くなった人々を埋葬する場所もない。「むしろやござ、毛布でくるんだ遺体」を、マラリアにかかった大人たちが体を引きずりながら棒でかついでサコダ浜へ運ぶ姿を、慶田盛さんは鮮烈に覚えている。
「波照間はマラリアのない島だったのに、米軍が上陸するからと日本軍が住民を強制的に疎開させたため、多くの人が亡くなった」
戦争マラリアの体験が平和への思いの原点になった。竹富町教育長時代、八重山の中学校公民教科書問題を巡り、国が町教委に保守色の強い育鵬社版を採択するよう求めた時にも、「県民の苦痛に触れていない教科書を子どもたちに与えてはいけない」との信念は揺らがなかった。
政府は「有事」を想定し住民用避難シェルター設置を検討したり、住民の避難方法を検証する図上訓練を実施したりしているが、慶田盛さんは「軍は軍隊のことしか考えない。住民避難には無理がある」と話す。
自衛隊配備や防衛費増額が進む今こそ、「平和とは弱い者も安心して生活できる社会のこと。今こそ非戦憲法を訴えないといけない」と語る。
(座波幸代)