嘉数陽之男(よしお)さん(84)=豊見城市平良=は78年前の出来事を忘れることができない。「戦争は地獄だ」と声を絞り出し、母に手をかけられた経験を語り始めた。「母もつらかっただろう。憎んではいない」
嘉数さんの母・侑貴子(ゆきこ)さんは「賢く、決断力がある人だった」と話す。1945年5月、南部をさまよっていた時、喜屋武村(現在の糸満市)福地で米軍の集中砲撃に遭った。同じ平良から逃げてきた男性に「みんなで死のう」と手りゅう弾を渡されると、侑貴子さんはきっぱり断った。「死ぬならシマ(平良)で死ぬ」
妹は米軍に捕らわれた後、栄養失調のため収容所で死んだ。妹が埋葬され土をかぶせられた時には「一緒に埋めてほしい」と穴に飛び込んだ。「子ども思いの愛情深い母だった」
その母親がわが子に手を掛けた。福地から平良に戻ろうと北上していた時だった。現在の兼城小辺りで前からぼろ布を腰に巻いた裸の女性が駆けてきた。「米兵がたくさんいる」と言われ、家族は凍り付いた。さらに「自分が先を歩く」と一人で前を歩いていた祖父が銃撃されて倒れた。家族はサトウキビ畑に飛び込み、ちりぢりになった。
嘉数さんは侑貴子さんと妹の3人で逃げる中、米兵に遭遇した。母はおぶっていた妹を嘉数さんに渡し、2人で逃げるように言った。しかし行く手を米兵が阻んだ。米兵が近づいた時、侑貴子さんはおんぶの帯で嘉数さんの首を絞めた。「苦しくて頭が真っ白になった」と振り返る。「米兵につかまったら女は強姦されて子どもは惨殺される。そう教えられていた。それなら自分で、と。母親として、そうせざるを得なかったのだろう」。米兵が止めに入り嘉数さんは助かり、3人は兼城村(現在の糸満市)波平で米軍に捕らわれた。
戦後、一度だけ冗談めかして「あの時、死にそうだった」と話したことがある。すると侑貴子さんが激怒した。それ以来、戦争の話はしなくなった。「母を悲しませたくないからね」と話す。「地獄の苦しみは何年たっても癒えない。一日も忘れたことはない。二度と起こしてはいけないんだ」と力を込めた。