米兵迫り、息子の首に手を掛けた母 激戦地をさまよった嘉数陽之男さん(84)親子「母もつらかった。戦争は地獄だ」
嘉数陽之男(よしお)さん(84)=豊見城市平良、沖縄戦当時6歳=の戦争の記憶は1944年夏ごろに始まる。屋敷に日本兵3人が駐留したからだ。豊見城村内の民家に分散した日本軍は、字のあちこちに防空壕を掘った。嘉数さんの家の敷地内にもあった。「屋敷の両側に戦車が入るほどの大きな壕があった」という。しかし日本兵に悪い印象はなかった。「日本は戦争に勝つという信じていたから」と振り返る。
そんな頃、思いがけない出来事が起きた。嘉数さんの祖父にスパイの疑いがかけられた。「家の敷地内の壕をのぞいただけだった。じいさんは方言しか話せないから家族は青ざめたよ」。屋敷にいた日本兵が間に入り、祖父は解放された。
豊見城村史(6巻)によると45年5月末ごろ、役場からの連絡で平良の字民は南部に避難を始める。嘉数さんたちも同時期に移動したと考えられるが、嘉数さんの記憶にあるのは、ある日急にパニック状態で避難したことだ。「米軍がすぐに攻めてくるという情報が入り、恐怖に駆られたのではないか」と推測する。
日中は林に隠れ、日が暮れると歩いた。日本軍が隠れている壕に入ることはできなかった。御嶽(うたき)の茂みに隠れて米軍の集中砲撃を浴びた。
同じ平良に住む男性が逃げる道中、母の侑貴子さんに手りゅう弾を差し出した。中国から帰還した元日本兵だった。中国でどれだけ多くの人に残虐行為をしたか、よく自慢していた男性だった。侑貴子さんは自決をきっぱり断ったが、嘉数さんたちがその場を離れた後、男性は手りゅう弾で自死した。年の近い友人2人も巻き込まれた。
「本当に日本は勝つと信じていた。米兵は青い目の鬼だと思っていた。でも結局、軍隊は住民を守らない。住民を守るためにいるわけでなはい。それは勘違いしてはいけないんだ」と嘉数さんは言い切る。「今言われる台湾有事をうのみにして、米国に追随することが本当に正しいのか。冷静に判断する必要がある」と話した。
(岩崎みどり)