「友軍」の銃撃で祖父失った 方言使う住民をスパイ視も 喜舎場宗正さん<重なる戦前・“国防”と住民>5


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米軍キャンプ・キンザー内のウヮーグヮーガマがあったと思われる場所を差す喜舍場宗正さん=8日、浦添市

 喜舎場宗正さん(84)は浦添市宮城の戦場で祖父を失った。日本軍による銃撃だった。「なぜ友軍と言っていた兵隊が、孫3人を連れて敵と間違うはずのない住民を撃ったのか」

 喜舎場さんの母は米軍上陸前に他界し、父は防衛隊に召集された。喜舍場さん、祖父、姉、妹の4人で暮らしていた。

 幼心にも戦争の影を感じていた。「幼稚園で日の丸を手に、空襲が来た時の心構えを学ぶ歌を歌った。集落には日本軍が駐屯していた」と思い出す。ただ、危機が迫っているという感覚はなかった。「軍の炊事場になった親戚の家に行き、鍋に残るお焦げをねだった。炊事係の兵隊が分けてくれた。兵隊は優しかった」。米軍の上陸前、喜舎場さんにとって日本軍は「友軍」だった。

 1945年になり空襲が激しくなった。3月ごろ、米軍の焼夷(しょうい)弾で自宅が焼けた。4人は現在の大平特別支援学校の南側斜面付近に掘った壕に避難したが、その近くに米軍の艦砲弾が落ちた。危険を感じ、大平の壕から北西約3キロの位置にある宮城の「ウヮーグヮーガマ」へ向かった。祖父が妹を背負い、喜舎場さんは姉と一緒についていった。牧港まで見渡せる開けた場所に出た時、惨劇が起きた。

 「野営をしているような明かりを見た瞬間、『そら来たー』という大きな声と銃の発射音が複数回響き、祖父が倒れた。祖父にすがりついていた妹を姉が背負い、ガマに入った」

 数日後、ウヮーグヮーガマが米軍のガス弾攻撃を受け、妹とはぐれた。姉と周囲の大人についていき、現在の市宮城にある麗魂(れいこん)之碑そばの壕へ避難した。そこでも米軍の火炎放射器の攻撃に遭った。姉と壕から出たところ米軍に捕らわれ、越来村(現沖縄市)の孤児院に送られた。その後、米兵がやつれ果てた妹を連れてきたが、妹は病院に運ばれ、それっきりになった。

 なぜ、祖父は日本兵に撃たれなければならなかったか。思い当たることはある。「おじいは幼い自分たちがはぐれないよう『ついてきなさい』と方言で必死に何度も言っていた」。その頃、日本軍は方言を使う住民をスパイと見なして処分した。「友軍」は住民に銃口を向けた。それではないのか―。

 脅威に名を借りた軍備増強が急速に進む。「日常に軍隊が溶け込んでいく今の状況は沖縄戦直前をほうふつとさせる。この感覚は沖縄戦体験者に共通のものだと思う」

 沖縄が再び戦場になるかもしれない。若い世代にそのことが伝わるだろうか。喜舎場さんは危機感を強めている。
 (藤村謙吾)