日本兵に3度 壕追い出され 戦況悪化で態度一変 「血も涙もない」 八重瀬町 伊森正幸さん(88)<重なる戦前・“国防”と住民>6


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自宅そばのガマ(自然壕)の前で沖縄戦の体験を語る伊森正幸さん=八重瀬町具志頭

 「この子が日本を守るようになるには、あと20年かかる。今すぐ出て行け」。1945年5月上旬、具志頭村(現八重瀬町)字具志頭の自宅裏山の墓に避難していた当時10歳の伊森正幸さん(88)は、ものすごい剣幕(けんまく)で退去を迫る日本兵の姿が「忘れられない」と怒りをにじませる。

 「この子」とは隣の墓にいた、真和志村(現那覇市)の安謝から来たという女性が前日産んだばかりの乳児を指していた。「今(壕の外に)出されたら死んでしまう」。女性の懇願にも日本兵は聞く耳を持たず、共に艦砲射撃が雨のように降る地上に投げ出された。

 「アメリカーも怖かったが、友軍、日本兵の方が恐ろしかった」。その後「安謝の家族」がどうなったかは分からない。

 伊森さんが壕を追い出されるのは3度目だった。3月末、両親やきょうだいなど家族10人ほどで避難していた自宅そばのガマ(自然壕)は、日本刀を振りかざした日本兵に出て行くよう命令された。その後、字具志頭と字新城の境界近くの森に掘った壕で1カ月余り暮らしたが、再び現れた日本兵に追い出された。

 海岸沿いの岩陰などを転々としていた5月下旬ごろ、歩き疲れて松林で休んでいた時に近くで爆弾が爆発した。家族は土埃(つちぼこり)に埋まり、2歳くらいの末弟と同居していた親戚の女性=当時(74)=が犠牲となった。自身が生きることに必死で「悲しむ余裕はなかった」という。

 44年夏ごろから日本軍が駐留した具志頭村。伊森さんの自宅にも日本兵数人が寝泊まりし、地域も食料や物資を供出するなど協力した。伊森さんは「兵隊は住民を守ってくれる」と羨望(せんぼう)の目で見ていたというが、戦況が悪化すると態度は一変。「非情な仕打ちで血も涙もない。戦争は人間を変える。絶対にやってはいけない」と今は思う。

 具志頭村では南部に撤退した日本軍と逃げ場を失った避難民が狭い地域に混在し、住民の4割以上が犠牲となったと言われる。伊森さんは、自身が体験した78年前の惨禍と自衛隊強化が進む現代の沖縄が重なるという。

 「基地や軍隊を置けば攻撃対象にされる。周りの住民を巻き込み、沖縄戦と同じことが起こってしまいかねない」。戦争を前提とした軍備増強ではなく、近隣諸国と外交を通じた友好関係の構築を願っている。

 (西日本新聞・泉修平)