繁多川住民が弾薬運び 松茂良美智子さん(2) 捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


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「イシジャヌガマ」があった石田中学校付近

 松茂良美智子さん(91)=那覇市=は1945年3月中旬から真和志村(現那覇市)繁多川の自宅近くにある「イシジャヌガマ」(石田の壕)で避難生活を送ります。約80人の住民がガマにいました。

 3月末以降、米軍の空襲や艦砲射撃が激しくなると、住民は弾薬運びなどの作業をさせられます。松茂良さんは海岸に結集した米艦船を見ていました。

 《時々、近くの高射砲陣地での弾薬運びなどをさせられ、砲弾が飛び交うし、本当に命がけでした。壕の中での生活は暑さと湿気で時々外に出ました。那覇港を見下ろすと、アメリカの軍艦がずらりと並んでいるのがよく見えました。》

 真和志村では2月18日から23日の間、軍に協力する「義勇隊」が各集落で結成され、防衛召集されなかった10代から60代までの男女が動員されました。

 当時の日刊紙「沖縄新報」は2月20日、「郷土死守の熱誠」という見出しで「驕敵(きょうてき)の来寇(らいこう)は近い、速に敵遨撃の態勢を固めよと県下各地に郷土防衛隊が結成される」と報じています。松茂良さんは「義勇隊に入るため国頭疎開は許されませんでした」と振り返ります。

 特攻機が米艦船に突撃する様子も見ていました。

 《1機の特攻機に何千発もの砲弾が花火のように発射されるのを見て、私たちは両手を合わせて「弾が当たらないように」と祈ったものです。》