軍の指示でガマを出る 松茂良美智子さん(3) 捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


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現在の那覇市繁多川。軍の指示で住民がガマから追われ、南部へ逃れた

 松茂良美智子さん(91)=那覇市=の家族は米軍上陸から1カ月以上を経た1945年5月中旬まで真和志村(現那覇市)繁多川の「イシジャヌガマ」にいました。住民には、東風平村(現八重瀬町)に移動するよう日本軍の指示が出ていました。

 《5月になり、軍の命令で東風平村にある壕と今入っている壕を交換するから出てもらうようにとの連絡が区長さんからあり、出て行かざるを得なかったのです。》

 繁多川自治会の「繁多川一〇〇周年記念誌 繁多川」(2012年刊)によると、繁多川周辺の壕は首里戦線に投入する兵隊の待機壕として使われることになり、日本軍は住民の移動を要請します。移動先は東風平村小城の陣地壕です。

 移動開始は5月3日ですが、松茂良さんは知人家族と遅れて出発しました。小城の壕ではイシジャヌガマにいた住民80人全員の収容は難しかったのです。

 《この壕には私たちは入ることができず、護得久ウトさん親子と護得久ナヘさん親子、護得久朝章さん夫婦と私たち家族5人は取り残され、遅れて出発しました。イシジャヌガマを追われたら行く当てもなく、どうしようと母たちは泣いていました。》

 「繁多川一〇〇周年記念誌」によると小城にも移動してくる日本兵が増えたため、繁多川住民は再び壕を追われ、糸満方面に逃れていきます。