母を助け畑仕事 与座ツルさん(1)母、弟をしのんで<読者と刻む沖縄戦>


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与座ツルさん

 本部町谷茶の特別養護老人ホーム本部園で暮らしている与座ツルさん(98)から戦争体験記が届きました。沖縄戦当時、与座さんは福岡県に疎開していました。本部町にいた母を沖縄戦で失い、弟が負傷しました。本部園の西永浩士園長が、与座さんの体験を聞き取りました。

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 与座さんは1925年6月、神奈川県横浜市の鶴見区で生まれました。父は阿嘉正保(そうほう)さん、母はかめさんです。鶴見区は1900年代初めから沖縄県出身者が移り住み、沖縄県系人社会を築いた地です。「私は5人きょうだいです。両親は出稼ぎで鶴見に移り住んだようです」と与座さんは語ります。

 与座さんが4、5歳のころ、家族は鹿児島県の与論島に移ります。生活は苦しかったといいます。まだ幼かった与座さんは与論尋常高等小学校に通いながら、母の手伝いをしました。

 《与論島へ行き、幼い4、5歳までお母さんを助けるため農業のお手伝いをした。

 お母さんの親戚で、糸満で魚を取るアギヤーをしている方から魚を手に入れてかまぼこ作りをしていました。》

 与座さんが与論島にいたのは8歳頃までです。その後、両親の故郷である本部村(現本部町)の辺名地(へなち)に移ります。

 《本部では本部尋常高等小学校に通っていた。ここでも親を助けるために小学生の時も仕事をし、二宮金次郎のように、よく本を読んで過ごしていた。》

 「本部ではもっぱら農業でした。まき取りにいったり、畑を耕したりしていました」と与座さんは当時を振り返ります。