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記者会見の政治利用 公権力と報道は対等 表現の自由は市民の権利 <山田健太のメディア時評>


記者会見の政治利用 公権力と報道は対等 表現の自由は市民の権利 <山田健太のメディア時評> 事前に質問を提出させ、官邸側が質問者を指名する首相官邸の記者会見
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 地方自治体の首長パフォーマンスが目立つ時代だ。1月には馳浩・石川県知事が県政を扱った地元放送局の映画の内容をきっかけに、記者会見に当該社の社長の出席を求めたり、定例の記者会見を取りやめたりする事態となった。7月には広島県安芸高田市の石丸伸二市長が会見で地元新聞社を詰問することも起きている。いわば、会見の場を自身の主張を一方的に開陳する(できる)場であると理解し、政敵と認定したメディアを攻撃する機会と捉えているようにみえる。

 これまで県内でも政治家や政党が、記事内容に抗議をするとともに当該社の取材を拒否したりすることはあったし、関西でも首長がメディアに対し逆質問をして、やり込めることが常習化する状況が起きて久しい。東京では政党がとりわけ選挙時に、政治的公平さを求めて放送番組内容に干渉したり、出演を取りやめたりするなどの取材・報道妨害を行うことは珍しくなかった。

 しかし、公式な記者会見を自らのパフォーマンスのために利用することは、かつての「大本営発表」にも通じるものであって明らかに問題がある。ただし残念なことにネット上では「威勢がよい首長」を支持する声の方がむしろ大きいといえ、それに政治家の側が後押しされ、ますます勢いを増しているようだ。

 偶然ではあるが、先月当欄に続き「会見」の在り方を扱うことにしたい。

主催者は誰か

 最初に確認する必要があるのが、記者会見の位置付けである。基本構造は、公権力(公的機関)が市民・有権者に対しアカウンタビリティー(説明責任)を果たすための場で、読者・視聴者を代表する記者が市民の知る権利を代行する形で会見の場に臨んでいるというものだ。報道団体である日本新聞協会も、2002年見解で「公的機関が主催する会見を一律に否定するものではないが、運営などが公的機関の一方的判断によって左右されてしまう危険性をはらんでいます。その意味で、記者会見を記者クラブが主催するのは重要なことです」としている。

 閉鎖性や非公開性、権力側との癒着など、厳しい批判の対象である「記者クラブ」の存在を前提とした議論に、違和感のある向きもあろう。ただし、対公権力との関係で圧倒的に弱い立場にある報道機関が、互角に対峙(たいじ)するための制度的な工夫として、ここでは考えておきたい。あくまでもポイントは、会見は取材先である公権力側と報道側との間の、対等な緊張関係のもとで行われるものでなくてはならないという点だ。

 以前の97年見解では、公的機関の記者クラブがかかわる記者会見について、「原則としてクラブ側が主催する」としていたものを、新見解では、ネット社会到来という時代状況等を踏まえ公的機関が主催する記者会見を一律に否定しないことに変更した。しかしその解説では、「当局側出席者、時期、場所、時間、回数など会見の運営に主導的にかかわり、情報公開を働きかける記者クラブの存在理由を具体的な形で内外に示す必要がある」と指摘している。

悪しき慣習

 本来は、会見の場で政治家が一方的に自説を開陳し、質問を受け付けないとか、特定の記者(社)の出席を拒否したり質問を認めなかったりするという行為は許されるものではない。ただし残念ながら実態は、会見を実質的に政治家の側が仕切る状況が一般化している。たとえば首相の官邸会見はその典型例で、出席者の数や顔ぶれに始まり、司会を官邸が行い、事前に質問を提出させ、それに従って質問者を指名し、さらに追加質問は認めないという運用がなされている。公権力側が一方的かつ圧倒的な主導権をもって実施している実態は、最低でも「主催権は両者で共有する」が、完全に崩壊していることを示している。

 そうした悪しき慣習が当然視され、地方自治体レベルの会見においても我が物顔の首長が登場することになっている。その延長線上で、「説明責任」は公権力側にあるにもかかわらず、報道側に、批判するなら理由を面と向かってこの場で言えなどと、会見の場で「報道機関の説明責任」を求めるという、逆転した事態が生まれてしまっているわけだ。

 もちろん報道機関も、紙面や番組等で問題を指摘する場合に、きちんとした理由を述べることが求められるが、それは読者・視聴者に対する責任であって、政治家に対してではない。弁が立つ政治家は、会見の場で記者をやり込めることで、自分の主張を正当化しがちだが、こうした「画」を利用し有権者へのアピール効果を狙うような会見の使い方は間違っている。

 少し異なる文脈だが、放送法で定められた政治的公平さの政府解釈で、公平かどうかを判断するのは政府であるとしているが、これも放送局に、違法でないことを公権力に対して説明する責任を負わせるという意味で、通底する考え方である。一般的な学説では倫理規定であるとされており、法が求めているのは「視聴者に対する約束事」であって、放送局の説明義務は公権力ではなく市民に対してのものだ。

報道機関の課題

 同様に、近年は国会答弁のなかで首相が、「私にも言論の自由がある」と言う時代ではあるが、会見パフォーマンスを行う首長も、それが自身の表現の自由の行使であると思っている節がある。しかし表現の自由は市民の権利であって、政府はあくまでもそれを保障する役割であって、個人と同じ意味での表現の自由は、政府にはない。

 もちろん、公務員である教師が教授の自由として、講義で自説を述べることにはじまり、政府がワクチン接種を奨励する広報を行ったり、原発推進の政策メッセージを発信したりするような、「政府言論」は存在する。ただしこれらも無制約に認められているわけではない。政府や政治家が、中継(とりわけネット生配信)でする表現行為は、憲法で保障されている自由な表現行為とは似て非なるものであるということだ。

 したがって報道機関は、会見の場面で首長に応答する義務はないし、もし説明するのであれば自身の媒体で、市民向けに説明することになる。とりわけ今日において、報道機関自身にも「見える化」が求められており、取材過程の可視化は課題だ。政治家に対してきちんと対峙し、市民代表として真っ当な質問で真実性の追及をしているか、事件・事故の取材で市民に対して横柄な態度をとっていないかなど、社会から見られていることを十二分に意識し、個々のジャーナリストが、その社会的責任を果たす必要がある。

 報道過程の可視化としては、記者の名前を表記すること(署名記事)や、顔写真を掲載することなどが行われてきている。これらは新聞と読者との距離を縮めるための方策でもあるが、これも報道機関の説明責任の取り方の一つであり、まさに信頼関係の醸成のためといえるだろう。

 会見における政治家のパフォーマンスを許しているのは、一般市民のネット上の喝采であろうが、もし報道機関の首長に対する遠慮があるとしたら、それは読者・視聴者の期待を裏切ることだ。あるいは会見に同席するライバル社への“いじめ”に対して見て見ぬふりをする報道機関に、知る権利の代行者を語る資格はなかろう。

 (専修大学教授・言論法)


 本連載の過去の記事は本紙ウェブサイトや『愚かな風』『見張塔からずっと』(いずれも田畑書店)で読めます。