辺野古移設市民投票20年 比嘉元市長、反対結果影響「なかった」


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インタビューに答えた比嘉鉄也元名護市長=19日、市内の自宅

 【名護】米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設の是非を問う、1997年の名護市民投票から21日で20年がたった。受け入れ反対が過半数を占めた結果に反し、受け入れを表明後に名護市長を辞任した比嘉鉄也氏(90)は、20日までに琉球新報のインタビューに応じ、市民投票の結果は、自身の受け入れ判断に影響しなかったことを明らかにした。

 一方、市民投票前、当時の大田県政が、移設について「国と名護市で考えること」との姿勢を示していたことについて「知事に『相談に乗ってくれ』と言っても、一義的には『名護市が考えること』とのことだった。県に対する不信感があった」と述べ、国の安全保障に関する重要な判断を一自治体に押し付けられていた理不尽さを振り返った。

 市民投票は、基地問題に関する住民投票として全国で初めて実施され、反対票が1万6639票と、賛成票の1万4267票を約2300票上回った。

 比嘉氏は米軍キャンプ・シュワブ案が浮上した96年当初は反対の姿勢だったが「名護市民とやんばる全体のことを考えると、振興策が必要だった」と述べ、政府の北部振興策を重視し、受け入れを判断したと説明した。

 また、市民投票の結果が受け入れの判断に影響を与えたかとの問いには「なかった」と述べた。また「移設をはいと言うか、駄目と言うか、非常に分かりにくいことで思案して、最後は決断した」と述べた。その上で「反対の結果が出て、ただでは済まないと思っていた」とも語り、受け入れ表明と共に辞任する意向を固めていたという。

 比嘉氏は、受け入れの決断は間違いではなかったと主張し「名護市民とやんばる全体のことを考えた。受け入れる代わりに北部振興を引き出し、10年で1千億の振興策を閣議決定させた」と語った。

 比嘉氏の辞任後、これまで5回の名護市長選が実施された。いずれも辺野古新基地問題が大きな争点になってきた。岸本建男市長(98年~2006年)は15年の使用期限など7条件を付けて受け入れを表明した。島袋吉和市長(06~10年)は現行のV字形滑走路案で合意した。10年に反対を掲げる稲嶺進市政が誕生し、14年の市長選でも再選した。翁長県政と連携し新基地阻止を訴えている。政府は「辺野古が唯一の解決策」として建設を推し進めている。