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アフリカマイマイ食べ生きる 与那覇カヅさん(6) 台湾への疎開<読者と刻む沖縄戦>


アフリカマイマイ食べ生きる 与那覇カヅさん(6) 台湾への疎開<読者と刻む沖縄戦>
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 漁船で台湾を離れ、与那国島に着いた与那覇カヅさん(87)=那覇市=はその後、石垣島を経て、故郷の下地村野原(現宮古島市上野野原)に帰ることができました。

 台湾にいた宮古の人々の引き揚げは、1945年8月下旬から翌年12月まで続きます。

 約1年の疎開生活を終えた与那覇さんを待っていたのは、荒れ果てたわが家でした。それでも、宮古に残っていた家族4人は無事でした。日本軍が駐屯した野原は猛攻撃を受けましたが、屋敷内に造った防空壕で身を守ったのです。

 《戦前に父が苦労してためた金で建てられた赤瓦の家は空襲でボロボロ。幸い家族は防空壕に避難していたので、どうにか助かりました。馬小屋で家族10人の生活が始まりました。》

 食べ物も不足していました。与那覇さんは食料となるアフリカマイマイを集めました。

 《アフリカマイマイがいっぱいいたので、木の灰でこすってネバネバを取り除き、湯がきました。カタツムリも湯がいて食べました。イナゴもセミも食べました。貴重なタンパク源です。そうめん汁を含め、これらはごちそうです。》

 家族10人は台湾と宮古で困難を乗り越え、生き延びました。

 《家なし、食べ物なし、金なしの生活です。でも命だけはありました。命どぅ宝です。家族10人が無事であることに感謝します。戦争で亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りします。》

 与那覇カヅさんの体験記は今回で終わります。次回から内村千尋さんのお便りです。