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文学少女だった母 瀬長フミさんと亀次郎さんの体験(2) 母と父の戦争<読者と刻む沖縄戦>


文学少女だった母 瀬長フミさんと亀次郎さんの体験(2) 母と父の戦争<読者と刻む沖縄戦> フミさんが育った南城市佐敷新里
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 不屈館館長の内村千尋さん(78)=那覇市=の母、瀬長フミさんは祖母に育てられ、1916年に佐敷尋常高等小学校に入学します。父の西村助八さんの転勤や母マカトさんの出産が重なったためでした。3年生になり、両親に引き取られ、真和志尋常高等小学校に転校します。

 小学校を卒業後、那覇市立実科高等女学校(後の県立第二高等女学校)に進学します。27年、女学校を卒業し、沖縄県庁警察部衛生課に勤めます。タイピストとして働きました。さらに助産婦養成所でも学びます。

 千尋さんは母フミさんのことを「文学少女だったようです。『小説家になりなさい』といわれるくらい文章を書いていたみたいです」と話します。フミさんも自伝「熱い太陽のもと 激動の島に生きる」で石川啄木の「一握の砂」や与謝野晶子の詩歌に引かれたと記しています。

 フミさんは36年、亀次郎さんと結婚します。亀次郎さんは1907年、豊見城村生まれ。県立第二中学校を卒業し、第七高等学校で学びます。その後、社会主義運動や労働争議に関わり、治安維持法違反の容疑で逮捕され、3年間服役しました。

 結婚した当時、亀次郎さんは沖縄で発行されていた日刊紙「沖縄朝日新聞」の記者でした。兵役を挟んで毎日新聞那覇支局でも働き、その後、沖縄県農業会に移ります。

 44年7月、サイパンの日本軍が壊滅し、政府は南西諸島の住民疎開を決定します。フミさんは九州に疎開します。