有料

流産覚悟で疎開船へ 瀬長フミさんと亀次郎さんの体験(3) 母と父の戦争<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 不屈館館長の内村千尋さん(78)=那覇市=の母、瀬長フミさんは1944年8月、九州に疎開します。長女の瞳さん、次男の徹さんの3人で貨物船に乗り込みました。千尋さんの誕生前のことです。

 夫の亀次郎さんは「沖縄は危ないから早く行った方がいい」とフミさんに疎開を薦めたといいます。

 沖縄や奄美のお年寄り、女性、子どもたちの疎開は政府の決定ですが、この頃は既に米軍が沖縄近海の制海権を握っていました。8月22日、疎開学童を乗せた対馬丸が鹿児島県の悪石島で米潜水艦に沈められています。危険な航海でした。千尋さんのお便りはこう記します。

 《私がお腹の中にいる身重の状態で、流産覚悟で疎開船に乗ったようです。対馬丸が撃沈されたころと同じ8月でした。

 その船には300人以上の人が詰め込まれていました。8日間かかって鹿児島にたどり着きました。》

 内村さんは「私がお腹の中にいて、母はつわりと船酔いで苦しんだようです。姉(瞳さん)も苦労したと言っていました」と話します。

 フミさんも自伝「熱い太陽のもと 激動の島に生きる」で疎開の状況を書いています。

 「船底は鉄板の上にござを敷いただけの蒸し風呂のようでした。私は流産でもしたら大変と、できるだけ動かないようにしました。小学校一年生の長女は数えどし四歳の弟をおぶって便所に連れて行ったり、水を飲みに行ったり、よく世話をしてくれました」

瀬長フミさん(1967年)