与那国島は、1946~50年ごろにかけ、台湾からの食料や日用品と、那覇や糸満など本島からの商人が米軍からの“戦果”を物々交換する取引の拠点になった。いわゆる「密貿易」である。島の西部の久部良を拠点に沖縄本島や日本本土まで、さらに東は中国や朝鮮、インドまでルートがあったと言われる。
取引は夕闇が深まるころから始まる。最盛期には80隻ほどの密貿易船が久部良沖に停泊した。そこからサンパン(伝馬船)に積み替え、波止場からは担ぎ屋が久部良集落内に品物を運び込んだ。船から料金を徴収する町にとって戦後復興の足がかりにもなった。
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地元では「景気時代」と呼ぶ。未曽有の繁栄ぶりを、久部良で生まれた大朝ハツ子さん(87)は覚えている。
父親は漁師。カジキ漁をする「突き船」で台湾ヒノキを運び、自宅を建てた。47年ごろのことだ。自宅の裏には、台湾からの商人に貸すための倉庫も次々に建てられた。「バナナとかリュウガン、小豆、ざらめ、ビーフン、白菜などたくさん。不自由しなかった」
台湾人が泊まることもあり、「一番座とか二番座に寝かせた。家族は裏座。料理上手の人もいて台湾料理は鶏の腸まで残さない。うんと食べた」と振り返る。
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長濱智恵子さん(90)も、景気時代の恩恵にあずかった一人だ。祖納で生まれ、洋裁を勉強。親戚から久部良の好景気を聞き、引っ越して洋裁店で働いた。
料亭が数十軒も軒を連ね、そこで働く女性たちが仕立ててほしいと台湾からの反物を持ってきた。「1、2日で仕上げればいい値が付いた。惜しみなくいくらでも払うので、びっくりした」。夜も寝ずにミシンを踏んだ。
景気時代は少なくとも2万人の人口があったとされる与那国。しかし米軍の取り締まりが厳しくなるなどして50年ごろに密貿易ができなくなると、大勢の人が島を去った。若者は本土への集団就職で離れていき、人口は減少の一途をたどった。
長濱さんは、与那国がにぎやかだった頃と比べ「人間も少なくなり、今後どうなるのかね、というくらい心配だ」と島の将来を厳しく見つめる。
魚追いかけ台湾、尖閣へ 「密貿易」に沸いた島、今はミサイル配備 <東アジアの沖縄・第3部「交流の足跡」>1・下
与那国の漁師にとって、“潮の子ども”と言われる魚を追いかけるのは当然のこと。国境はあってないようなものだった。「昔はどこまでも行っていたよ」。与那国町久部良に住む鹿川義昭さん(83)は若い頃は台湾近海まで行ってカジキを突いた。大朝ハツ子さん(87)の父、繁さん(故人)の突き船に乗った。
鹿川さんは当時まだ16歳。戦争で父親を亡くし、きょうだいを養うためだった。漁の仕方は「誰も教えてくれないから見て勉強した」。
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島が「密貿易」に沸く中でも生活は貧しかった。芋畑で同級生らと芋を盗んで食べ、警察に連行されたこともある。幼心に「なんで生まれたのか」と思うほどの苦しさを、持ち前のハングリー精神で乗り越えてきた。
サンゴ船やカツオ船にも乗り、お金をためて船を4隻購入した。今も現役の漁師だ。
尖閣諸島周辺でも多くの魚を釣ってきたものの、2012年に尖閣諸島が国有化されて以降、中国との関係が悪化した影響で漁に行けなくなった。昨今、行けない海域がどんどん増えているとも話す。「あの島は石油が出ると言われているから取り合いになるのだろうが、アカマチやサンゴがたくさんある。漁師のことを中心に考えてほしい訳さ」
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国や地域の対立に翻弄(ほんろう)され、漁業者は二重苦、三重苦とも言える状況だ。密貿易が終わって以降の島の人口減少は、漁業の衰退にもつながっている。さらに今、「台湾有事」が伝えられる中、「大げさになり過ぎている。地域が仲良くやればいい。中国ともなるべくは、交流をやってほしい。戦争したら今はミサイル1発でみんな死ぬよ。ニュースも聞きたくない」と吐露する。
島にミサイル配備が計画される中、多くの高齢者はこれまでと違う空気に戸惑いや恐怖を覚えている。長濱智恵子さん(90)は「自衛隊基地がなかったら狙われず、平穏に暮らせたのに。ミサイルが飛んでくるとか、どこに避難すると言っても避難するところもない」と不安を語る。大朝さんは「自分は年だから死んでもいい。でも子や孫を思うと、戦争をなくして島が栄えてほしい」と願う。
(中村万里子)
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琉球の時代から続いてきたアジアとの交流。人や物の交流は繁栄をもたらし、沖縄の歴史や文化を形作り経済を支えてきた。“台湾有事”が叫ばれる中、人々が紡いできた交流の足跡をたどり、沖縄の立ち位置を見つめる。