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ある日置かれた「メモ」、突然の「自衛隊誘致」 与那国、元自民所属の町議が語る「自立」目指した特区申請 <東アジアの沖縄・第3部「交流の足跡」>2


ある日置かれた「メモ」、突然の「自衛隊誘致」 与那国、元自民所属の町議が語る「自立」目指した特区申請 <東アジアの沖縄・第3部「交流の足跡」>2 与那国町の「自立ビジョン」や畜産業への思いを明かした小嶺博泉さん=与那国町
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 アジアとの“交流拠点”として島を発展させ、人口減少に立ち向かうはずだった。畜産業を営む小嶺博泉(ひろもと)さん(52)ら各層の30人あまりが膝を突き合わせ、2005年に与那国町が策定した「与那国・自立へのビジョン」(自立ビジョン)。自立・自治・共生を基本理念に、アジアと自由に往来する「交流の島」を掲げた。戦後「密貿易」で栄えた島の記憶が背景にあった。

 人口流出で町の存続が危うくなる中、04年、町は住民投票を経て石垣市と合併しないことを決めた。その上で作成した理念が、自立ビジョンの基になった与那国「自立・自治宣言」である。当時、自民党所属の町議の小嶺さんら若手議員が中心になって策定し、04年10月の町民大会で決議。町議会でも全会一致で採択された。「近隣・東アジア地域と一層の友好・交流を推進し、相互発展の道を築き、国際社会の模範となる地域間交流特別区の実現に向け努力する」と打ち立てた。

 小嶺さんは「毎晩、島の将来について熱い議論を交わした」と振り返る。自立ビジョンの特区制度が実現すれば、台湾や中国から直接飼料を入れることができる―。従来の県外を経由する飼料の輸送コストを下げられ、畜産業の振興にもつながると期待していた。

 町は自立ビジョン実現に動く。県や国への要請を重ね、06年、07年と台湾・花蓮市と交流の強化で基本合意や協議書を結び、08年には同市に国境交流特命事務局を設置。チャーター便を飛ばした。しかし、町の特区申請は二度、国に却下された。

島の将来を考える町民大会で与那国「自立・自治宣言」を開会宣言として読み上げる尾辻吉兼町長(当時)=2004年10月3日、与那国町

 そんな時、町議会の自衛隊誘致の動きは突然だった。「ある日、出勤したら机の上にメモがあった。『誘致の請願だから書いておいて』と言われ、簡単に書けないと言ったら(同僚議員が)『退席しろ』と。自立ビジョンをすっ飛ばして、なぜ熱意をそぐような政策なのかと」。外間守吉町長(当時)は、島の活路を自衛隊誘致に託した。住民投票を経て、それは決定的となった。

 誘致に反対した小嶺さんは議員を辞めざるを得ない状況に追い込まれた。暴行や脅迫を受け、うつを患い口をつぐんだ。話さなければ―。そう思ったのは、昨年見た光景がきっかけだった。戦車を積んで輸送機が飛び立つ光景に鳥肌が立った。「島に人が住めなくなるかもしれない。もう人にどう思われてもいい」。自衛隊の説明会に足を運び、切り込んだ。

 「自衛隊は何を守ろうとしているのか。いつの間にか、『中国が怖い』と町内の世論を誘導され、配備の口実にされた。与那国は駒に使われただけだ」と言い切る。

 島の“要塞(ようさい)化”が進む一方で、自立ビジョンで描いた交流・交易で島を活性化する将来像は具体的に進んでいない。「島の人たちが自分に嫌がらせをしたのも国を思ってのこと。でもこの国の立ち位置は何なのか。GDP(国内総生産)が伸びてないのに、防衛費を増やせば疲弊だけ。日本のやるべきことは農業の振興だ。このままでは畜産業は崩壊する」。島の人々を、島のなりわいを守りたい―。ヘイトを向けられても発信を続ける。 (中村万里子)