prime

「パイン王」の孫が願う交流・発展 「沖縄のフルーツ、台湾抜きに考えられない」<東アジアの沖縄・第3部「交流の足跡」>4


「パイン王」の孫が願う交流・発展 「沖縄のフルーツ、台湾抜きに考えられない」<東アジアの沖縄・第3部「交流の足跡」>4 「逆風にさらされてきたけど、補助金にも頼らず、あしたを良くしたいとやってきた」と話す島田長政さん=石垣市
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 パイナップル、マンゴー、ドラゴンフルーツ、パッションフルーツ、スターフルーツ…。今はなじみの沖縄の南国フルーツ。苗は元々、台湾から持ち込まれたものだった。「沖縄の果物や農業は、台湾抜きに考えられない」。石垣島に移り住んだ台湾人が逆境を乗り越え、沖縄の農業を支えてきた。台湾ルーツの人々はそう胸を張る。

 石垣市内で青果店を営む王滝志隆(おうたきしりゅう)さん(69)は「パイン王」として知られた実業家の林発(りんぱつ)さん(故人)の孫に当たる。1935年に林さんらはパイン栽培加工会社「大同拓殖株式会社」を設立。台湾から約60世帯、330人を呼び寄せた。

 しかし、土地を奪われると警戒した住民の反発は激しかった。パインの苗は焼却され、水牛の搬入が阻止された。林さんは「台友会」をつくり、住民との友好に励んだ。パイン缶詰も生産も軌道に乗った41年、缶詰の生産が日本軍に禁止された。代わりに陸稲(おかぼ)や芋を植えつけたものの、台湾に疎開を指示されると大部分の人は耕地を置いて行かざるを得なかった。残った一部の台湾人らは戦後、島内の未開発地帯への移住を強いられた。

台湾人が支えてきた沖縄の果物の歴史を語る王滝志隆さん=石垣市

 戦争で破壊されたパイン産業をなんとか再興できないか―。奇跡的に復活させたのが島田長政(ながまさ)さん(79)の父親の廖見福(リョウケンプク)さん(故人)だった。島田さんは当時2、3歳。父親に「これ食べてみろ」と言われたことを覚えている。食べると甘い味がした。廖さんが戦時中、山の中に隠していたパインの苗の根元に生えた新芽だった。廖さんは林さんらと「琉球缶詰」を設立。パイン栽培は爆発的に伸び、好景気に沸いた。

 廖さんは、島外からの移住者にも苗を提供し、優先的に果実を買い取った。自分の苗を腐らせるほど、工場は処理しきれないパインが集まった。缶詰の生産が追い付かず借金が膨らみ、自宅を差し押さえられた。「当時は(父親を)ばか野郎だと思っていた。お人よしで人のことをやりたがる」と親しみを込める。父親は54歳で心臓まひで早世し、母親も働き過ぎで島田さんが19歳の時に亡くなった。

 高校を卒業したばかりで戸主となり高い金利の借金を抱え、農業で生計を立て直した。苦しい時に支えてくれたのは「若い頃は嫌だった」という台湾だった。「マンゴーやびわの技術は全部台湾からいただいた。通ううちに良い国だと思うようになった。果樹の研究も沖縄より進んでいる」。嘉義市の農家から石垣にスナックパインを入れたのも島田さんだ。

 15歳で祖父を頼って石垣に来た王滝さんは祖父が「台友会」をつくったように八重山台湾親善交流協会の事務局長を務め、交流の発展を願う。「軍事にお金を使うより、行政にはもっと文化や交流面で後押ししてほしい。日本は中国や台湾と外交や民間の親善交流で信頼関係を築いた方が良い。沖縄と福建もこれだけの交流の歴史がある。それを発展させれば、中国が攻める訳にもいかないとなるのでは」。幅広い視野で地域を見つめている。 (中村万里子)