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友人、いとこ、同僚、皆に愛され戦後を生きる 戦争孤児・浦添さん 連載「読者と刻む沖縄戦」に読者から情報提供


友人、いとこ、同僚、皆に愛され戦後を生きる 戦争孤児・浦添さん 連載「読者と刻む沖縄戦」に読者から情報提供 1952年3月の城西小学校卒業記念写真。手に本を持っている児童が浦添八重子さん(中松美枝子さん提供)
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 9月19日~23日に掲載した「母の戦争 読者と刻む沖縄戦」の中で、那覇市首里金城町で生まれ、戦災孤児となった浦添八重子さんの情報を呼び掛けたところ、2人の読者から連絡をいただきました。

 那覇市石嶺に住む中松美枝子さん(84)は城西小学校での八重子さんの同級生で、家も近所でした。

 中松さんは1939年、八重子さんと同じ金城町で生まれました。沖縄戦で本島北部に避難した八重子さんとは逆に、中松さんは南部に避難し、喜屋武や摩文仁をさまよいました。

 中松さんはお手紙で「記事を読み、うれしさとなつかしさで胸がいっぱいになりました。私も金城町生まれで、結婚するまで石畳を利用していました。八重子さんとは学年が一緒でした」と記しています。52年に撮影された城西小卒業時の集合写真も一緒に送られてきました。

 本島北部で母や妹、祖母を亡くした八重子さんは戦後、親戚に育てられました。「家族を亡くし、叔母の家にお世話になっていました。同級生と遊ぶこともあまりなかったようです」と中松さんは語ります。

 八重子さんは中学校を卒業した後、首里バス(現在の那覇バスの前身)に就職します。その後、親類がいる和歌山に転居し、大阪で家庭を持ちました。中松さんとの間で手紙のやりとりがありましたが、再会はかないませんでした。

 9月23日付の連載に載った孫に囲まれる八重子さんの写真に目がとまりました。手紙につづります。「お孫さんと写った写真、八重子さんの小さい頃とそっくりですね」

 和歌山に向かう八重子さんを港で見送った人がいました。いとこに当たる70代の女性です。幼い頃、「八重子姉さん」と呼び、慕っていました。

 「八重子姉さんは首里バスの人から愛されていたようです。『八重子、行くなよ。代わってあげるよ』と別れを惜しむ声が飛び交っていたのを覚えています」

 八重子さんの母、信子さんと女性の父は異父きょうだいです。信子さんの実母は首里の王族に連なる家の人だったといいます。「とてもきれいで上品な人だったと聞いています」と女性は語ります。

 八重子さんと共に北部に逃れ、亡くなったのは信子さん、妹の勝子さん、祖母のカメさんの4人です。女性は親戚の男性も同行したのではないかと推測します。「この親戚は沖縄市の人です。北部まで一緒だったのではないか。戦後、コザの部隊で働いていた私の父と一緒に信子さんらの遺骨を拾ったようです」

 戦後、女性の元に八重子さんから結婚写真が届きました。沖縄戦で孤児となった八重子さんが大阪で得た静かな幸せが伝わってくるような写真でした。

いとこに送られてきた浦添八重子さんの結婚写真