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「米を焼く」日本兵に不信感 山城幸子さん(4) 10・10空襲、私の体験<読者と刻む沖縄戦>


「米を焼く」日本兵に不信感 山城幸子さん(4) 10・10空襲、私の体験<読者と刻む沖縄戦> 北部に向かう中南部住民の多くが一時避難した金武観音寺
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 10・10空襲に遭い、那覇市住吉町から豊見城村(現豊見城市)根差部に避難していた山城幸子さん(88)=那覇市=ら7人は1945年3月末ごろ、本島北部に向かいます。

 目指したのは叔父の知人がいる大宜味村喜如嘉です。県が45年2月に作った中南部住民の疎開計画でも大宜味村は那覇、豊見城住民の受け入れ地でした。 宜野湾村(現宜野湾市)や金武村(現金武町)を移動する途中の出来事が忘れられません。

 宜野湾村内のガマ(自然壕)に避難している時です。中に入ってきた日本兵が壕を出るよう住民に命じたのです。

 「壕にはたくさんの米を積んでいて、それを見た日本兵は『アメリカ軍に米を食べられてしまうので焼いてしまう』というのです。たくさんの避難民がいましたが、日本兵に追い出されてしまいました」

 山城さんは「焼いてしまうくらいなら、避難民にあげればいいのに」と感じました。その時から日本兵への不信感や恐怖心を抱くようになります。

 金武村では鍾乳洞のあるお寺に避難したことを覚えています。金武観音寺のことと思われます。中南部から北部へ向かう多くの避難民が一時、この鍾乳洞に隠れています。

 「みんながご飯を炊いていて、食べることができました。2日くらいいましたが、とても助かりました」

 7人は金武から喜如嘉へと向かいます。