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世界観を変えた「琉球漢詩」 葛藤超え、研究の先に見えた「琉球人の生き方」とは<東アジアの沖縄・第3部「交流の足跡」>6


世界観を変えた「琉球漢詩」 葛藤超え、研究の先に見えた「琉球人の生き方」とは<東アジアの沖縄・第3部「交流の足跡」>6 「琉球漢詩」の魅力について語る上里賢一さん
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 「中国語とウチナーグチができて初めて使える資料がある。中国語をやってみたら」

 当時琉球大の学生だった上里賢一さん(79)が中国語を始めたきっかけは、琉球語の研究者であり、上里さんの指導教員だった故仲宗根政善氏からの言葉だった。それから出合った「琉球漢詩」は上里さんの世界観も変えた。先人の生き方を見つめ直し、今を捉える。

 1372年、中国の進貢・冊封体制に入った琉球。漢詩を詠むことは教養として必須だった。琉球漢詩の金字塔的作品が、久米村出身(現在の那覇市久米)の程順則(1663~1735)が記した「中山詩文集」だ。福州や北京への道中のことや、現地の知識人との交流が紹介されている。上里さんはライフワークとして研究に取り組んできた。「琉球漢詩は、今でいう写真だと思う。情景を生き生きと描写している」

 当初は葛藤もあった。「こんな辺境の場所の漢詩を研究して、何の意味があるのか」。そう悩んでいた上里さんを変えたのは程順則だった。程は20代のほとんどを福州や北京で過ごし、高レベルな中国語を身に付けたという。その作品に出合い、「とにかく視野が広い」と驚いた。

 程順則や蔡温が活躍した17世紀後半~18世紀は、“琉球ルネッサンス”が花開いた。上里さんは、その背景を薩摩支配の中における苦悩があったとみる。「アイデンティティーが激しく揺さぶられ、琉球らしさとは何か、どう生き抜くべきか思い詰めたのだろう」

1992年、古代交通の要所だった仙霞嶺の入口で上里賢一さん(「閩江のほとりで」より)
1992年、古代交通の要所だった仙霞嶺の入口で上里賢一さん(「閩江のほとりで」より)

 1992年、上里さんは夢をかなえた。日中国交回復20年の節目に福建から北京まで沖縄の若者らと歩く事業に、学術委員の一人として参加した。程順則ら使節団が歩いた道をたどった。

 道中、その足跡や息遣いを感じる感動の連続だった。「150年以上を経ても地名や距離が琉球漢詩に書かれたものと一致した」。外国人に開放されてなかった福建省の奥地への立ち入りも許可された。熱烈な歓迎を受ける一方、かつて日本兵が軍靴で荒らした跡などを目にし、複雑な思いを抱いた。この旅で、沖縄県と福建省の友好省県締結や、大学の交流協定締結につながるなど成果があった。

 かつて中国やアジアへ渡った琉球人の生き方。上里さんは「今の時代にこそ必要だ」と強調する。「日本との関係だけを見ていたら希望がないように映るが、沖縄を中心に西は中国、南はフィリピンや東南アジアがあり、すごく広い。かつて琉球王国はそれを視野に入れて国の経営をした。そういうことを生かすべきだ」

 日中友好協会県支部長や同会副会長も務め、12月には福建師範大で学生への講義も予定する。日中関係が悪化し“台湾有事”が前面にだされる中でも、上里さんは交流を絶やさず願う。「県は独自に草の根の交流へ動いた方がいい。沖縄の若者を中心に交流を活発にしていってほしい」

 (中村万里子)