越来村(現沖縄市)を離れた喜屋武貞子さん(84)=那覇市=ときょうだい、母の稲嶺千枝さんらは久志村(現名護市)の山中に避難していました。1945年5月末、千枝さんは出産の日を迎えます。
《雨がしとしと降る梅雨時の5月27日、弟が生まれた。母の苦しそうな声と、ばあちゃんたちの「マカテ(母の幼名)、チバリヨー、ナーヤガティドー」と励ましの声が続く。私たちも一緒に「ウーン、ウーン」とうなった。
その時、「オギャー」。赤ちゃんは戦争など関係ない。赤ちゃんは大声で堂々と泣く。何も怖くない。この世に生を受けたのだ。母親に感謝して、天に感謝して、みんなで「おめでとう」と思わず叫んだ。戦争を忘れた。》
久志の山中にいたのは喜屋武さんの家族や親戚家族ら12人ほどです。米兵を恐れ、息を潜めていました。生まれたのは次男です。喜屋武さんは出産の様子をはっきり覚えています。
「3歳の妹が少し声を出してただけでも『見つかる、声を出さないで』と言われていたんです。でも、オギャーと生まれるとみんなが喜んで、少しざわついた感じになりました。弱々しい声で泣いたのかな。食べる物もないのに、よく育ったと思います」
沖縄戦の最中に生まれた喜屋武さんの弟は今も「自分のふるさとは久志の山だ」と語り、久志を時々訪ねるそうです。