暗闇の地下水路、1日かけ脱出 玉那覇祐正さん<未来に伝える沖縄戦>


暗闇の地下水路、1日かけ脱出 玉那覇祐正さん<未来に伝える沖縄戦> 体験を語る玉那覇祐正さん=12日、宜野湾市宜野湾
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 宜野湾市に住む玉那覇祐正さん(90)は戦前、現在の米軍普天間飛行場の敷地内にあった宜野湾村宜野湾の集落で育ち、1945年の沖縄戦では集落内のガマなどに避難しました。上陸してきた米軍から身を隠し、叔父を含む家族8人で生き延びました。祐正さんの話を宜野湾中学校1年の青山夏海さん(13)とウィリアムス・友・カブゥさん(13)が聞きました。


 《祐正さんは1933年4月20日に宜野湾村宜野湾で玉那覇家の6人きょうだいの長男として生まれました》

 当時の宜野湾はサトウキビ畑や竹林などの緑が豊かで、日中は子どもたちの声が響く、とてものどかな場所でした。戦争のことなどこれっぽっちも考えず、遊んでいたのを覚えています。夏にはそこら中で蛍の光を見ることができました。木登りトカゲもたくさんいました。友だちと捕まえては、相撲を取らせたのがいい思い出です。今はもうないですが、宜野湾並松(じのーんなんまち)という松並木が有名で、よく遊びに行きました。

 40年に宜野湾尋常小学校(41年から宜野湾国民学校)に入学しました。その頃、日本と中国との戦争が長期化していました。2年生の2学期ごろからは地域の綱引きなどの行事が徐々になくなっていきました。


 《41年12月、日本は米国のハワイ州真珠湾などを奇襲し、太平洋戦争が始まりました。42年、太平洋のミッドウェー海戦で日本は大敗を喫し、米軍の反撃が始まります。戦禍は沖縄にも迫り始めます》

 連日「勝った、勝った」とラジオニュースが流れていました。とてもうれしい気持ちでしたよ。学校でも日本は神の国だから負けないと教わっていました。勝利を祝うちょうちんが各地に掲げられました。私を含む国民の多くが戦争に肯定的な雰囲気でした。

 学校の教育も戦争への準備に変わっていきました。3年生に上がると、消火訓練や竹やりを使った戦闘訓練の授業もありました。日本や家族を守るための訓練だから、怖いという感情はありませんでした。むしろ誇らしかったです。子どもにとって、戦争は怖いものではありませんでした。一方で、連戦連勝だった日本軍は各地で負け始めていたようですが、私たちは何も知りませんでした。

 44年、国民学校の5年生になりました。教室は兵舎に使われるようになり、松林の下などで青空学級が開かれるようになりました。沖縄でも戦争の準備が着々と進められていたのです。

 10月10日、空襲警報が鳴り、家族は家の近くにあったマチガーガマに避難しました。遠くの方で雷のような、うなる音が絶えず聞こえました。その日の夜は燃え上がる那覇の街が空を赤く染めていたのを覚えています。1週間はガマにこもっていたと思います。

※続きは11月15日紙面をご覧ください。