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80代4きょうだい、初のパラオ墓参へ 「当時の話全くしなかった母」が残したメモきっかけに 沖縄


80代4きょうだい、初のパラオ墓参へ 「当時の話全くしなかった母」が残したメモきっかけに 沖縄 「生まれ育った瑞穂村に行ってみたい」と話す最高齢の山入端裕子さん(左から3人目)、岸本勇さん(同2人目)、岸本清さん(左)、松田ミサ子さん(右)=28日、那覇空港
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 太平洋戦争中の1944年、旧南洋群島では日米両軍の激しい戦闘が繰り広げられた。戦前、南洋の島々に移り住んでいた沖縄県人も戦火に巻き込まれ、パラオでは空襲と飢餓で命を落とした。80年近くたっても遺族や帰還者らの思いは尽きない。

 今回の墓参ツアー最高齢の山入端裕子(やまのはひろこ)さん(87)=神奈川県、岸本勇(いさむ)さん(84)=那覇市、岸本清(きよし)さん(82)=名護市、松田ミサ子さん(80)=名護市=の4人きょうだいは初めて参加する。住んでいたのはパラオのバベルダオブ島にあった日本人の入植地・瑞穂村だった。山入端さんは「自宅の真向かいが飛行場で日本軍の飛行機が飛び立った。昼間は防空壕に隠れる生活だった」と振り返る。

 44年3月のパラオ大空襲ではコロールの町が「真っ赤に燃えていた」ことを覚えている。母親は祖母を、山入端さんは妹をおぶって歩いて山に避難した。山の中の小屋に食料はなく、カタツムリを捕って食べた。芋の葉は憲兵に取り上げられた。勇さんも山の中を歩いていたことや、日本兵が同じ兵士に殴られているのを見て「痛そうだな」と驚いた記憶がある。

 きょうだいと両親、祖母は生き延びたものの、祖父はパラオで亡くなった。戦後、両親はパラオの話を全くしなかった。勇さんは最近になって生前に母親が残したメモを見つけ、ツアー参加を思い立った。

 山入端さんは、テレビでウクライナやガザが攻撃される映像に、かつて見たコロールの空襲を重ねる。「戦争はやってほしくない。かつて日本も米国を相手に戦争をしていたのよね」と語り、歴史を教訓とし、戦争を繰り返さないでほしいと思いを込めた。

妹の埋葬場所探す 81歳 渡久山さん「最後かも」

「最後かもしれない」とパラオ墓参への思いを語る渡久山盛幸さん=28日、那覇空港

 渡久山盛幸さん(81)は今回が4回目の参加だ。パラオで生まれ、3歳で沖縄に引き揚げた。栄養失調で亡くなった2歳下の妹幸代(さちよ)ちゃんの埋葬場所を探し続けている。「訪問は最後かもしれない」。なんとか手がかりを見つけたいと思いを募らせている。

 戦前、一家はコロール島の市街地に住んでいた。父親は日本軍に現地召集され、母親は3人の幼子を抱えて食料不足に耐えた。しかし、もらった米一握りをおかゆにして乳飲み子の幸代ちゃんに一さじあげようとしたところ、幸代ちゃんは息絶えたという。

 1944年3月、パラオで米軍の空襲が始まり、降り注ぐ砲爆撃や銃弾から逃げる生活が始まった。母親は盛幸さんを連れ、山中を逃げ惑った。沖縄に引き揚げた際に妹の遺骨は持ってこなかった。

 父母は戦後一度もパラオを訪れることなく他界。盛幸さん自身の記憶はなく、これまでに何回か記憶をたどって島を回ったものの、住んでいた場所や妹の埋葬場所は見つかっていない。「父母は戦争の苦い経験がよみがえるからか、詳しく話さなかった。もっと聞いておけばよかった」と唇をかみしめた。

 (中村万里子)