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切り離された「兄弟島」 沖縄に暮らす奄美出身者の思い <奄美の今・これから~復帰70年>4


切り離された「兄弟島」 沖縄に暮らす奄美出身者の思い <奄美の今・これから~復帰70年>4
この記事を書いた人 Avatar photo 岩切 美穂

 「食事はイモやソテツがゆばかり。白米や卵、豚肉なんて、浜下りや盆正月にだけ口にできるごちそうだったよ」

 1938年に奄美大島の龍郷町で生まれ、奄美が本土復帰する前の53年8月、15歳で家族と那覇市に移り住んだ岡江保彦さん(85)=那覇市安里=は、復帰前の奄美の生活をそう振り返る。

古里龍郷の1950年ごろの写真を眺めながら「骨は沖縄に埋めるが、私の魂は奄美にある」と語る岡江保彦さん=16日、那覇市内
古里龍郷の1950年ごろの写真を眺めながら「骨は沖縄に埋めるが、私の魂は奄美にある」と語る岡江保彦さん=16日、那覇市内

 戦後、米統治下に置かれた奄美群島。本土との往来や物流が制限され、島の経済を支えていた特産品の大島紬(つむぎ)や黒糖の取引もできなくなった。経済は窮迫し、島民は食糧難に苦しんだ。

 「沖縄に行けば何とかなる」。当時、米軍基地建設や基地周辺の職を求め、沖縄に渡った奄美人の数は5万とも7万とも言われ、当時の奄美の人口の4分の1に及んだ。

 紬加工を家業とし戦前は豊かだった岡江さんの家族も、生活が立ち行かなくなり那覇に渡った。父・岩彦さんは市場の野菜売りを経て、紬の技術を生かし琉球絣(がすり)の製造・販売を手掛けるようになり、家族6人を養った。

 53年12月25日に奄美が日本に復帰すると、米国民政府は奄美出身者らを「非琉球人」として外国人登録を義務付け、公職から追放し参政権もはく奪した。那覇高校を卒業した岡江さんも夢だった公務員、国費による大学進学の道を絶たれた。「不条理で、奄美人の人権を無視した措置に屈辱と怒りを覚えた。しかしその思いをぶつける先もなく、むなしさを抱え日々を過ごした」と当時を振り返る。

 神戸のゴム製品会社での勤務を経て沖縄に戻った岡江さん。公務員になるため本籍地を那覇に移し、那覇少年鑑別所で法務教官として働いた。結婚後は義父の建設会社を手伝い、自分の不動産会社を起こした。

 沖縄に渡って70年。奄美出身者を「大島」と呼ぶ差別的視線を感じたこともあるが、古里への誇りと反骨精神、誠意を胸に沖縄社会で生きてきた。近年は数年に1回、奄美を訪れる。紬産業が衰退し、人口減少に歯止めが掛からない古里の姿にもどかしさも感じる。

 沖縄・奄美が世界自然遺産に登録され、両地の交流促進が期待されるが、奄美―那覇の航空路は直行便で往復できず物流も本土を経由するなど課題も多い。

 「沖縄に住む奄美出身者は多い。古里を経済的に浮揚させ活性化するために何かできないか」。戦前まで行き来が盛んだった沖縄と奄美の縁を再び深めようと、岡江さんは近く奄美経済に関する研究会を沖縄で立ち上げる計画だ。「兄弟島の交流を再び」。古里への思いは未来を見据えている。

 (岩切美穂)
 (おわり)