有料

泣き叫ぶ6歳「絶対死にたくない」家族を救う 渡嘉敷「集団自決」から79年 沖縄


泣き叫ぶ6歳「絶対死にたくない」家族を救う 渡嘉敷「集団自決」から79年 沖縄 「集団自決」(強制集団死)の現場から生き延びた体験を振り返る元村長の座間味昌茂さん(右)と姉の米子さん=28日、渡嘉敷村の白玉之塔
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 【渡嘉敷】「絶対死にたくない」。そう自身が泣き叫んだことで、家族そろって「集団自決」(強制集団死)の現場を離れ、助かった人がいる。元渡嘉敷村長の座間味昌茂さん(83)=村渡嘉敷=の姉で当時6歳の米子さん(85)=浦添市屋富祖=だ。約20年ぶりに参列した慰霊祭で、幼なじみも犠牲になった79年前の悲劇を振り返り「子どもたちが生きていたらどんな人生を歩んだか。胸が締め付けられる」と語った。

 「集団自決」が起きた北山(にしやま)(標高約200メートル)の日本軍本部壕近くの現場を、島民は「玉砕場」と呼ぶ。1945年3月27日の米軍上陸後、渡嘉敷区の壕に避難していた米子さんの家族8人は、日本軍の「北山に集まれ」との命令を受けて、徒歩で北山を目指した。

 米子さんは祖母の手を引き坂道を上った。夜の雨に打たれ食べ物もない過酷さに気絶してしまった米子さん。親戚のおじいさんが「どうせ死ぬ。ここに寝かせておけ」と言ったが、母の道子さんが父の妹に荷物を捨てさせ米子さんを背負わせて「玉砕場」に到着した。

 「玉砕場」では、美しく化粧し晴れ着を着た女性たちが泣いていたことを覚えているが、それ以外の記憶はおぼろげだ。後に母から「あなたが『死にたくない』と泣いたから玉砕場を離れた」と聞かされた。晴れ着の女性や、向かいの家の幼なじみの姉妹が亡くなったことを後に知った。「集団自決」におけるどの場面か定かではないが、海上の米軍艦の照明が明るく、艦の上で米兵らが音楽に合わせて踊っている姿が記憶に残っている。

 昌茂さんによると、「集団自決」で命を落とした330人のうち約100人は10歳未満だったという。米子さんは「ウクライナやガザの戦争のニュースを見ると、沖縄戦で亡くなった子どもたちを思い出す。体験したこと、生きていることへの感謝を、今のうちに孫たちに伝えたい」と白玉之塔を見詰めた。

(岩切美穂)