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イベント定着、吉本頼み 作品より芸能人に脚光 減る出品「映画見てない」<連載「終幕 沖縄国際映画祭を振り返る」・上>


イベント定着、吉本頼み 作品より芸能人に脚光 減る出品「映画見てない」<連載「終幕 沖縄国際映画祭を振り返る」・上> 第1回沖縄国際映画祭で行われたコンペティション部門の表彰式=2009年、北谷町美浜のミハマセブンプレックス
この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子

 初めての「沖縄国際映画祭」が開催される前、ガレッジセールの2人は直々に店を回って宣伝を続けていた。「吉本は映画の会社じゃない。県民にさえ相手にしてもらえなかった」とゴリさん。今や県民の誰もが知るイベントに成長した。「県民の行事に入れてもらえたことがうれしい。今はさみしいというより、やりきったという気持ち」

 沖縄国際映画祭は2009年、北谷町を会場に始まった。芸能人が毎年こぞって沖縄を訪れるイベントに県内は色めきたった。コンペティション部門の審査員には有名監督やタレントが名を連ね、第2回からはコメディー部門など他にはない特色を見せた。第4回ではアジアを中心に15の国と地域から102作品が出品され「国際映画祭らしくなっていた」と県内の映画関係者は口をそろえる。

 ゴリさんが本名の照屋年之で映画監督としての才能を開花させたのも、沖縄国際映画祭から。第1回で初監督作品「南の島のフリムン」で長編デビュー。ほぼ毎回作品を発表し、第10回映画祭で上映された「洗骨」は、トロント日本映画祭で最優秀作品賞を受賞した。「吉本興業がチャンスをくれなかったら映画を撮っていない。映画祭が終わっても映画は撮り続けたい」と意気込む。映画祭で沖縄の記録映像を上映した、シネマラボ突貫小僧代表で映画監督の當間早志さんは「映画は制作も上映もお金がかかる。吉本が作家に機会を与えてくれたことは大きい」と意義を語る。

 だが、上映作品より来沖する芸能人に注目が集まり、客席に空席が目立つ劇場もあった。21日のレッドカーペットを見に来た県内の40代女性も「(映画祭で上映する)映画は見たことない」と苦笑いした。當間さんは「カンヌやベルリンでは街全体が映画一色で、観客もどの映画を見るか話している雰囲気があった。沖縄でも映画に引きつける見せ方ができればよかった」と振り返る。

 映画祭は海外からの出品を含め、上映作品自体が年々減り“国際映画祭らしさ”は薄れた。一方で沖縄が舞台の作品など、地域発信型の映画上映が増えていた。2022年に「シネマ組踊」を上映した映画監督の宮平貴子さんは「沖縄が舞台の映画上映が増えて期待していた」と評価する。

 だが、吉本興業の実行委員会離脱と共に映画祭は終幕。沖縄側で引き継ぐことができなかった。當間さんは「沖縄側にプロデューサー的な人がいたのか分からないが、そういう人が必要だったのかもしれない」と指摘した。(田吹遥子)

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 沖縄国際映画祭が16年の歴史に幕を下ろした。映画祭は沖縄の映画文化やエンタメ、地域経済にどのような影響を与えたのか。改めて振り返る。