爆風で息が止まりそうになった。1948年8月6日、現在の伊江港にとまっていた米軍の輸送船(LCT)に積まれていた、大量の未使用弾が爆発した。伊江村西江上出身の宮城須美子さん(85)=那覇市=は当時9歳。姉2人と港近くの商店で買い物していた。
「どど どどど どん」。次々に襲いかかる爆発音。地面が揺れ、頭を抱えてしゃがみこんだ。「また戦争だ!」。恐怖で体が震えた。頭から手を離すと、手にべったりと血が付いていた。爆弾の破片の傷痕は今も頭と足に残る。
沖縄戦で米軍が上陸する直前の45年3月、疎開のため、西江上の住民たちと対岸の本部半島へサバニで向かった。真夜中の海を越えて備瀬から今帰仁へ。6歳の幼い子の足ではついて行くのもやっとで、引き離されないよう必死だった。宮城さんによると、一緒に避難していたある女性は敵に見つかるからと別の人に言われ、女性の赤ん坊を山中に置くように迫られた。赤ん坊は口をふさがれた。
宮城さんと住民らは米軍にやがて捕まり、大浦崎収容所へ送られた。テント小屋の衛生環境は劣悪で、さらに治安への懸念もあった。「女性たちは米兵に乱暴されないように頭をそっていたが、レイプされて赤ちゃんができた女性は自殺した」
故郷に戻れたのは47年。遺骨が至る所に転がっていた。自宅に落とされた爆弾が原因だろう。祖母の遺体がガジュマルの木上に吹き飛ばされたままだった。
近所の女性は「集団自決」(強制集団死)で一家全滅し、一人だけ生き延びていた。首に大きな傷が残り、悲しそうにしていた姿が忘れられない。
「戦争が終わったから、戦争の被害は終わりじゃない。その被害は戦後もずっと続くのです」
戦争体験は抵抗の原動力になった。55年3月、米軍は伊江島で土地を強制接収した。当時、宮城さんは高校に通い島を離れていたが、宮城さんの父親は米軍演習地の拡大にあらがっていた。土地を守る闘いの中心にいた阿波根昌鴻(しょうこう)さんと行動を共にしていた。
沖縄戦で、宮城さんの兄や姉にあたる子ども2人を父親は亡くし、阿波根さんも一人息子を失っていた。「人間の命まで奪った戦争への怒りが基地の反対につながった」。父親が宮城さんに語った言葉だ。
教員となった宮城さんは復帰運動に加わった。沖縄が日本に返還されれば基地がなくなると信じていた。しかし、72年に沖縄が日本に戻った後も、軍事基地が集中する状況は変わらなかった。むしろ悪化していると、穏やかな口調に怒りがにじむ。
命、暮らしをのみ込む戦争の暴力性を目の当たりにしてきた。それら不条理に対する感情を記録するかのように宮城さんは2011年から新聞に投稿を続け、一冊の私家本にまとめている。
「沖縄を本土は虐待し続けている。今は本当に戦争前夜のようだ。いつ戦争が起きても不思議ではない。みんなが平和になることを考えなければならない」。投稿につづる思いだ。
(中村万里子)
伊江島LCT爆発事件 1948年8月6日、島に残された未使用の爆弾を遠洋に投棄する作業中に、125トンの爆弾を積載した米軍のLCTが爆発。死者107人、負傷者70~100人、家屋8棟全焼の被害を出した。遺族は「戦死者と同等の扱いを」と補償を求めたものの、講和条約締結前だったため認められず、後に一人600~700ドルの見舞金が支払われただけだった。事件直前に砲弾集積場で火災が発生し、処理を急ぐ中で起きた。危険な爆弾処理作業に村民を当たらせるなどずさんな占領統治だったことも浮き彫りになった。