1955年、米軍は「銃剣とブルドーザー」で伊江島真謝の人々を追い出し、家屋や畑をつぶした。住民らは生活を守ろうと、非暴力を掲げて抵抗を続けた。 「土地を取られた者もそうでない者も、当初は一つだった」。当時を知る安里正春さん(86)は振り返り、肩を落とす。「それを崩されたことが悔しい」
土地を巡る住民の抵抗は、56年に島ぐるみの闘いに広がった。この年、米下院は沖縄の軍用地問題調査報告「プライス勧告」を発表した。沖縄の基地の重要性を強調し、県民の一括払い反対や適正補償など土地を守る四原則要求が全て無視されたためだ。激しくなる島ぐるみ闘争に、やがて米軍は一括払いを廃止し、軍用地料の値上げで幕引きを図った。
次第に真謝の結束がほころび、契約する人が出始めた。耕す場から軍用地料を生み出す場に土地を変質させ、住民の結束を奪った。72年、沖縄の日本返還後は米軍の演習場を島の西側に押し込んでいった非暴力の運動もしぼんでいった。
真謝出身の玉城睦子さん(64)は、父母が土地闘争に関わった。「契約を巡って意見の違いが生じ、基地に対する考えも軍用地料が上がればいいと考える人も出てきた。お金で人々が分断された」。住民の抵抗の中心だった故阿波根昌鴻(しょうこう)さんについて「島の人にとって『平和活動家で近寄りがたい人』になってしまった」と振り返った。
玉城さんは小学校の教員だった。不条理にあった伊江島、生き抜いた住民の歴史を子どもたちに知ってほしいとの思いから、教頭で赴任した学校では107人が亡くなった48年の米軍LCT爆発事件を題材とした平和劇も創作した。記憶の風化にもあらがうように、阿波根さんが撮った300点以上の写真展「島の人々~戦後伊江島・阿波根昌鴻写真展~」の実行委員長に就いている。写真展は2022年から始まり、2年後の今も巡回展として続いている。
幅広い世代が記憶を継承し、地域の歴史を見つめ直す機会になっていると手応えを得ている。ある70代の男性は幼い頃の写真を見つけて涙を流した。亡き家族の歴史をたどる人も目の当たりにした。踏みにじられた幸せな暮らしとそれにあらがう人間の強さ。阿波根さんは、写真という形でこれらをつないだ。玉城さんは「島の人々の心を再び一つにする」力を感じている。
沖縄で軍事化が進む状況に、玉城さんは懸念を強める。だからこそ阿波根さんの写真が放つメッセージが重要だとみる。分断を乗り越えてつながり、戦にあらがう。
「基地は簡単になくならないが、心から安全で安心して平和で生きられる沖縄、日本、世界になってほしい。今できることとして何ミリかずつかもしれないけれど、深い溝を埋めていきたい」。それは住民や阿波根さんの願いでもあると信じている。
(中村万里子)