家焼かれ「あんた方は三等国民、発言権はない」 生きるため声上げた、伊江島の瞳<不条理に抗う>1


家焼かれ「あんた方は三等国民、発言権はない」 生きるため声上げた、伊江島の瞳<不条理に抗う>1 米軍に逮捕された32人の即時釈放を求め、琉球政府や立法院に詰めかけた女性たち。1955年6月14日ごろ、阿波根昌鴻さんが撮影した(わびあいの里提供)
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 1955年6月、那覇市にあった琉球政府立法院前で幼い子どもを抱き、険しい表情の女性たちの写真。女性たちは土地を奪われ、生活を守るためにあらがった家族を支えるため、島から駆けつけた。

 伊江島の土地闘争で知られる故阿波根昌鴻さん(2002年死去)が撮影した。約300点が伊江島で22年に展示された後、24年に入っても県外で巡回展が実施されるなど好評を博している。島内で撮った別の写真は一転、子どもを抱いた女性たちは優しい笑顔を浮かべ、子どもたちもあどけない様子だ。

 「真謝の子どもたちの目の輝き、すごいでしょう」。写真展実行委員長の玉城睦子さん(64)は、人々のたくましさを見いだす。

 伊江島は1945年の沖縄戦で激戦地となり、住民の約半数の1500人が犠牲になった。生き延びた住民も慶良間諸島などに移され、帰島できたのは47年。島の北西にある真謝の人々は焦土と化した故郷を耕し、芋を食べ落花生を売った。しかし、復興の芽吹きを米軍が踏みにじった。

 1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し、沖縄での基地の使用や拡大を進めていた米国には法的措置の必要が生じた。米軍は強制的に土地を収用する布令を出し、伊江島の土地も狙いに定めた。55年3月、一方的な通告で、米軍は家屋を焼き払い、ブルドーザーでなぎ倒し、畑を奪った。

 当時17歳で真謝青年会にいた安里正春さん(86)=伊江村=は再び蹂躙(じゅうりん)された故郷のありさまに言葉を失った。米軍責任者が「あんた方は三等国民で発言権はない。戦争に負けたでしょう」と住民らに言った。聞いていた安里さんは思った。「人間の仕業なのか」

 真謝の人々は暮らしを守るため結束し、演習場内の畑を耕すなどあらがった。自分たちの畑で農作業中だった住民の男性32人を米軍は逮捕し、本島へ移送、軍事裁判にかけた。

 家族を支えようと、女性たちは一歩も引かなかった。「私たちを刑務所に入れてくれ」。琉球政府に詰めかけ、窮状を訴えた。

 32人には玉城さんの父もいた。冒頭の69年前の写真に向かい、玉城さんは問いかける。「この必死さ、怒り、今の私たちにできるだろうか」。島の人々の結束はその後、崩されていった。

 (中村万里子)

 1952年「屈辱の日」を境に、米軍は恒久的な基地の造成を沖縄で進めた。72年5月15日の「復帰」後も過重な基地負担という不条理は日米両政府によって続く。住民らの軌跡を通して、沖縄の現在地と今後を探る。