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幼子抱え「愛ゆえ勇敢に」、米軍に立ち向かった女性たち リーダー・田里ナヘさんの覚悟<不条理に抗う>4 伊佐浜(下)


幼子抱え「愛ゆえ勇敢に」、米軍に立ち向かった女性たち リーダー・田里ナヘさんの覚悟<不条理に抗う>4 伊佐浜(下) 自身が瀬長亀次郎さんにあてた手紙を手にする田里ナヘさん=2008年8月、ブラジル・サンパウロ市のカーサベルデ
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 1957年9月、シンガポールの船上。宜野湾村伊佐浜(当時)の土地を米軍に奪われた、故・田里ナヘさん=当時43歳=は移民先のブラジルへ向かう途中、手紙を書いた。宛先は当時の那覇市長、瀬長亀次郎さん。米軍の不条理な振る舞いに抵抗する、沖縄の中心的な1人だ。田里さんはこうつづった。「生活できるだけの土地さえ残っておりましたならば、今時分こんなつらい思いではるばるブラジルまで行く必要は無かったのでございます」(原文のママ)

伊佐浜の闘争で女性たちのリーダー的立場だった故・田里ナヘさんの手紙を紹介した展示=4月21日、那覇市若狭の不屈館

 53年4月、米国民政府は新規に土地を接収するため、軍用地の強制収用手続きを定めた布令第109号「土地収用令」を公布した。「銃剣とブルドーザー」により県内各地で土地を奪っていった。伊佐浜では、田里さんをはじめ女性たちが米軍の土地強制接収に立ち向かった。6人の子どもがいた田里さんはそのリーダー的な立場だった。幼い子どもに母乳を与えながら、伊佐浜の現状や立ち退きへの反対を訴え、琉球政府や立法院に詰め掛けた。声は大きく、怒りをぶつけることもあったという。

 55年1月、女性たちの不満が爆発した。接収問題について米軍や米国民政府、琉球政府と宜野湾村長の4者協議で、立ち退き費用や軍用地料などの条件で地主側が了承し「円満解決」と報道されたからだ。当時の新聞記事によると、琉球政府に押しかけ、主席との会見を求めた女性たちは次々とこう訴えた。「われわれ女性たちに何の相談もなく何が円満解決か」「野菜をつくる土地もなくなったら、どうして生活していけるものか」「子どもの将来を考えると(中略)私たちが率先してこの土地を護らねばならないと立ち上がりました。(中略)愛ゆえに勇敢になりました」

 同じく土地闘争に参加していた澤岻安一さん(101)は田里さんのまたいとこ。「ナヘさんは普通の主婦だが、非常に頭が良く、当時の行政主席(比嘉秀平)だろうが物おじしなかった。ウチナーグチでどんどん意見し、土地を奪われないよう折衝した」という。

 3月になると、強制接収を阻止しようとした住民が米軍ともみ合いになる事件が起きた。これを機に開かれた立法院の軍使用土地特別委員会に、伊佐浜の女性たちは傍聴に詰め掛けた。女性たちの必死の嘆願により、委員会は「絶対反対」を掲げることになった。新聞でも報じられ、各地から伊佐浜に支援者が駆けつけた。

 しかし、同年7月19日早朝、米軍は銃剣を持った武装兵を出動させ、鉄条網で伊佐浜集落を囲い込むとブルドーザーで畑や田んぼを平らにした。伊佐浜を追われた田里さん一家はのちにブラジルに渡った。ほかの伊佐浜の住民も一緒だった。

伊佐浜の土地を強制的に接収した後、米軍基地を建設するため整地する重機(宜野湾市教育委員会提供)

 伊佐浜の女性たちの行動が「島ぐるみ闘争」につながる沖縄の民意を形づくったことは、当時の記録が物語っている。

 移住から半世紀がたった2008年。94歳になった田里さんのもとに、瀬長さんに宛てた自身の手紙が戻った。瀬長さんの次女・内村千尋さんが送ったのだ。手紙にはつづられていた。「土地は命の親」と。

(慶田城七瀬、吉田健一)
(次回は11日付で掲載予定)