1971年4月29日、那覇港から1人の青年が熊本を目指してフェリーに乗った。米施政権下の沖縄から北緯27度線を越え、日本に入るにはパスポートを必要とした時代。読谷村の知花勝さん(76)は琉球大学を卒業後、職員として勤めた那覇市内の法律事務所を辞めてからの行動だった。「憲法に帰る。その思いが強かった」。迷いはなかった。
「基地のない真の復帰」を訴えながら、車3台で北海道と九州から東京を目指す全国キャラバンに参加するためだ。キャラバンはサンフランシスコ講和条約の発効で、日本から切り離された4月28日の「屈辱の日」を起点とし、原爆が投下された広島なども回った。
「戦争と隣り合わせの米軍基地が残されたままの復帰では、県民の自治は取り戻せない」。基本的人権の尊重や平和主義。地域のことを地域の住民が決める地方自治。憲法の理念の下で生きる沖縄の日常を思い描いた。
生家に近い読谷補助飛行場では、米軍のパラシュート降下訓練が頻繁にあり、事故が絶えなかった。しかし、被害を訴えようにも沖縄には県民の暮らしを守る法体系はなかった。「いつも目の前に米軍統治の不条理があった」
米国民政府(USCAR)は布告、布令、指令を乱発した。それらの法令で守られるのは米軍の権利。いまの沖縄県庁に当たる琉球政府は司法、立法、行政が分立した一国並みの体裁をとりながらも「布告、布令および指令に従う」とされていた。「自治がない現実が沖縄に横たわっていた」
56年に米軍の圧政にあらがっていた故瀬長亀次郎さんが那覇市長に当選すると、米国民政府は市への銀行融資や補助金を凍結して揺さぶった。57年11月には布令によって市町村自治法と選挙法を改正して瀬長さんを失職させ、その後の選挙への立候補も阻んだ。63年、米側最高責任者のキャラウェイ高等弁務官は沖縄での自治は「神話」と断言した。
60年4月28日に結成した県祖国復帰協議会(復帰協)も会則で布告、布令の廃止と日本国憲法の適用を求めた。「憲法に帰る」は県民の願いだった。
知花さんは全国キャラバンで5月3日の憲法記念日の直前、京都を訪れた。「憲法を暮らしの中に生かそう」と記された京都府庁前の垂れ幕は目に焼き付いている。
知花さんが熊本に渡った翌年の72年、待ちわびた復帰を迎えた。しかし、多くの米軍基地はそのまま残り、「基地のない平和な島」とかけ離れていた。知花さんは73年から衆院議員になった瀬長さんの現地秘書に、90年からの26年間は読谷村議となり、沖縄に押し付けられた課題に取り組んだ。
復帰から半世紀以上が過ぎたが、不安はより大きくなっている。名護市辺野古の米軍の新基地建設を巡り、国はことし、沖縄県知事の権限を奪う「代執行」での工事に踏み切った。安全保障の名の下、米軍と自衛隊が一体化した軍備化も進む。
民主主義の基盤といわれる地方自治がゆらいでいる。「憲法よりも上位に日米安保があるようだ。沖縄どころか、日本の自治までもが危うい」。知花さんは京都府庁前の写真に写る若き日の自分を見つめた。
地方分権に逆行するかのように、国が地方自治体に指示権を行使できる「補充的指示権」を創設するなどの地方自治法の改正案について、政府は今国会での成立を目指す。沖縄の歩みから、日本国憲法の意義を見つめる。
(安里洋輔)
<用語>日本国憲法の地方自治と米統治下の沖縄
日本国憲法は第92~95条で「地方自治」をうたう。1950年、米軍政府に代わり設置された琉球列島米国民政府(USCAR)は、統治のための法的根拠として「布令・布告・指令」を発した。米国統治下の沖縄における最高法規で、行政、立法など三権を備えた住民の自治機構である琉球政府にも強制力を有していた。