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選挙時の〈表現の自由〉 主役に有権者入らず 政党守り歪んだ情報空間<山田健太のメディア時評>


選挙時の〈表現の自由〉 主役に有権者入らず 政党守り歪んだ情報空間<山田健太のメディア時評> 衆院東京15区補欠選挙の告示日、立候補した乙武洋匡氏の演説会場で、電話ボックスの上から声を上げる政治団体「つばさの党」から出馬した根本良輔氏(右)=4月、東京都江東区
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 選挙時の〈表現の自由〉が社会的な問題になる事案が増えている。選挙期間中の表現活動は、公職選挙法等の法律によって厳しく規定されているが、その大目的は公正な選挙の実現にあり、民主主義社会の存立の根幹にかかわる問題だからだ。それゆえに、十全な自由保障が担保されなければならないとともに、一方ではその自由を厳しく制限することも行われている。その仕組みと現実に起こっていることの矛盾を改めて確認しておきたい。

妨害や差別

 直近の24年の衆院補選では、東京15区(江東区)で「つばさの党」立候補者が、他の候補者の街頭演説中にマイクを使って大声を張り上げる、選挙カーのクラクションを鳴らし演説が聞こえないようにする、執拗(しつよう)に追い掛け回すなどを行い、選挙妨害ではないかとの批判があった。警視庁は陣営に選挙の自由妨害罪に抵触する可能性があるとして警告を出したものの、本人は政治活動の自由の範囲として次回以降も続ける意向を示している。

 遡(さかのぼ)って19年参院選では、札幌市で演説中の安倍晋三首相(当時)にヤジを飛ばした市民2人が、警察官に現場から排除され、警察の行為の正当性をめぐり裁判が続いている。一審では、ヤジの内容は公共的・政治的事項に関する表現で、警察官の行為によって表現の自由が侵害されたと認めた。これに対し二審では、うち1人については警察官の行為は適法として請求を棄却した。

 また、近年の選挙には在特会(在日特権を許さない市民の会)の流れをくむ日本第一党が立候補者を出し、排外主義的な主張を行う事象も続いている。選挙活動と称して公然と差別的言動を繰り返しており、16年の都知事選では在日韓国人攻撃を、20年の都知事選では外国人への生活保護費支給停止を、21年の衆院選では中国批判を繰り返した。法務省人権擁護局は19年3月12日付内部通達で、選挙運動で行われた差別的言動について「直ちに違法性が否定されるものではない」との見解を示している。

自民の申し入れ

 一方で当選後に政治家自身が罪に問われることもあった。23年4月の江東区長選では、動画投稿サイト「YouTube」ほか複数のインターネット有料広告を流した区長は辞職し、公職選挙法違反で公判中だ。この有料広告に関与したとして自民党衆院議員も執行猶予付き有罪判決が確定し、現役2人の政治家が捕まったことになる。なお、同時に行われた区議選で日本維新の会の区議もインターネット広告を流していたことがわかっている。

 さらにいえば、街頭演説中に相手方を罵倒するのは前述のような事例に限らず、当時の安倍首相も17年の都議選の最終日に選挙カーの上から、「憎悪や誹謗(ひぼう)中傷からは、何も生まれない!」「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないんです」と、やめろコールの群衆に対抗した。さらにはこの対応を、直後の記者会見で菅義偉官房長官(当時、のちに首相)は、「きわめて常識的な発言」と評価した。

 当時の状況を思い起こすと、14年11月の衆院選直前には、自民党が在京テレビ局に「公平中立な番組作り」を求める申し入れをし、安保関連法の成立をはさみ16年2月には、選挙報道が政治的公平に欠けるとした政府統一見解を発表している。まさに、政権への批判を許さないとの強い牽制(けんせい)が次々と示されていた時期であった。

煽り型候補者

 公職選挙法上、選挙期間中の表現の自由の主役は3人で、候補者=選挙活動、政党=政治活動、報道機関=選挙報道が規定されている。もともとは、候補者は資金の多寡に依(よ)らない平等な選挙戦をするため、活動を原則禁止とするかわりに、政見放送や選挙広告を無償化(政府が全額負担)することで、有権者にとっての投票情報を情報空間に供給している。同時に、報道の自由を認めることで、より多様で多面的な情報が社会に流布されるよう設計されていた。

 これに小選挙区制導入に合わせて、別途、政党枠を新設して、しかもほぼ無制限な表現の自由を保障した。このことによって当初想定していた選挙期間中の情報流通モデルは大きく歪(ゆが)んでしまったといえよう。その政党の自由な振る舞いに触発されたかのように、候補者の自制が効かなくなり、言論の自由の履き違え現象がみられるようになってきたともいえよう。

 しかも世の中では、嘲笑や論破型、断定・断言型の言動がテレビやSNSでもてはやされ、対話や議論よりも相手を威圧することに一部の共感が生まれていった。その結果、国政選挙でもNHK党や参政党などにみられるような煽(あお)り型の候補者に人気が集まり、議席を獲得するまでになっている。

 法に守られた政党と、その政党によって作られた空気に乗った候補者の、自由過ぎる言動は多様で自由な言論公共空間をつくることなく、むしろ歪(いびつ)な情報空間を形成し有益な投票行動を遠ざけている状況が続いているとみられる。

インターネット

 こうしたなかで忘れられた存在が有権者だ。先の3人の主役に入っていないことからもわかる通り、公職選挙法上、私たち市民は選挙期間中の表現活動の蚊帳の外である。確かに、13年のインターネット選挙運動解禁によって候補者のネット利用がほぼ自由となり、その間接的な効果として、それまでリアル社会で選挙にかかわる表現活動が認められていなかった市民が、ネット上で「選挙活動」の一環として一定の表現行為ができるようになった。

 しかしあくまでも「おまけ」の位置づけが変わらないために、ヤジが厳しく制限されたり、さらにいえば選挙の際の有効な判断材料である議員の国会(地方議会)における投票行動もオープンにされないし、いま政治問題になっている政治資金の流れについても、できる限り複雑にし市民の目から遠ざけ誤魔化(ごまか)すことを主眼にしたような法の作りと運用がなされ続けている。これはまさに、市民の知る権利を欺くということで、表現の自由そのものの問題である。

 低い投票率を有名人を使った行政キャンペーンによって打開しようとするのではなく、このような一貫した市民不在の選挙時の表現の自由の仕組みを変えることが、まず考えられるべきだ。有権者を主役にする視点からは、政党に優遇しすぎた自由保障の仕組みも、自由な言論を謳歌(おうか)する一部の候補者の言動が本来の候補者情報の入手を阻害していることも明白である。また、報道機関が多様で豊かな投票行動を促進する情報をきちんと私たちに伝えてくれないのでは、法で自由を守っている意味はなくなる。

 社会全体で、だれのための選挙かを見つめ直すときにきている。

(専修大学教授・言論法)


 本連載の過去の記事は本紙ウェブサイトや『愚かな風』『見張塔からずっと』(いずれも田畑書店)で読めます。