この1年間は〈放送〉にとって大きな節目だ。2025年3月22日は日本で放送が始まってから100年。大正末期に誕生したラジオから戦後のテレビ、そしてデジタル化が進み、インターネットとの融合が現実のものとなった。今国会に上程された放送法改正案は、NHKのネット事業を必須業務とすることで、公共放送が電波でも通信(ネット)でも流れる時代を名実ともに迎えることになる。
NHKネットへ
23年10月に総務省の有識者会議「デジタル時代における放送の将来像と制度の在り方に関する検討会」は、NHKによるネットでの番組配信をテレビ放送と同じ「必須(本来)業務」に格上げする報告書を発表。テレビを持たずにスマートフォンなどで番組視聴する利用者には「相当の費用負担」を求めることも盛り込まれた。この間、パブリックコメントも実施され、その中には昨年交代した前会長(とみられる)の現執行部批判のコメントがあり、業界内では話題になったりもした。
さらに「日本放送協会のインターネット活用業務の競争評価に関する準備会合」が継続中で、競争評価プロセスが示されている。ネット活用事業については、民放連や新聞協会を含む関係者で構成する検証会議の結果を電波監理審議会に諮問して事業を行っていくというものだ。
なお、前述の報告書が出された後も、同会議の中核的分科会である「公共放送ワーキンググループ」などでは議論が継続されている(24年2月には第2次取りまとめ発表)。その過程でNHKは、ネット上のコンテンツを放送に対する「理解増進情報」としてのサービス提供だとの考え方を事実上、撤回した。「テキスト情報をネットでは流さない」ことを約束し、民業圧迫と批判を強めていた新聞界と「手打ち」をした格好だ。
実際この4月には、ネットでのオリジナルコンテンツで一定の人気があった「政治マガジン」「事件記者取材note」など、政治・社会・国際・科学・スポーツ各分野の記者コラムなどのテキストニュースサイトの更新を一斉に停止。売りものだったネットワーク報道部の活動を一気に縮小する動きを見せている。
表現の自由
政治活動の自由と知る権利を対立概念のようにとらえがちだが、実はどちらも憲法21条の表現の自由から導かれるものだ。表現の自由は歴史的には、権力を監視するプレスの自由(出版の自由)から始まっているが、行政が巨大化・複雑化したりメディアもまた権力化したりする中で、情報主権者として国民が直接、政府情報にアクセスする権利を認めることで、実効的に表現の自由を保障するために、知る権利が生まれた。
一方で、首相が答弁の根拠としている八幡製鉄政治献金事件の最高裁判決は、憲法上、会社のような法人・団体も、公共の福祉に反しない限り、政治資金の寄付の自由を有するとした(1970年)。これに似た考え方は日本だけでなく米国にも存在し、政治支出は言論の一形態であって修正憲法1条(表現の自由条項)によって保護されるとの連邦裁判決がある(2010年)。さらに14年には、1人当たりの献金総額の上限設定にも違憲判決が出て、選挙資金規正法が事実上骨抜きになるとの指摘も強い。それでも米国は、憲法に保障されるべき政治的表現の自由を守ることに力点を置いているといえるだろう。
しかしここでは二つの点で注意が必要だ。一つは、弊害の除去努力をしているか、である。日本の最高裁判決でも、自由によって金権政治や政府腐敗が生まれる可能性を指摘し、そのような弊害に対処する方法(立法)の必要性を指摘している。それが判決の中でいう「公共の福祉」理由による制限の正当性であろう。そしてもう一つが、監視による透明性の確保である。米国の場合は自由を保障する一方で、第三者による監視の制度を徹底することによって、献金と支出の透明化を実行している。いわば「公開」の完全義務化による透明性の担保である。
いずれも基本的人権である、報道の自由と被報道者の人権(プライバシー)という2項対立によって、一方的に取材・報道の自由という表現の自由が制約される構図に追い込まれるのと同様、政治活動の自由というマジックワードによって表現の自由が貶(おとし)められることは看過できない。しかも、表現の自由の原点である権力監視の観点からも、黒いカネの流れの解明という中核的な知る権利=表現の自由の問題において、バランスの問題に置き換えること自体が誤りでもある。
情報の価値
この間、23年からは受信料の1割値下げが始まり、地上契約が月1100円、衛星契約が月1950円になったが(沖縄はさらに安い)、これにより1千億円程度の減収になることが確定、予算規模は6千億円台前半に落ち込む。
一方で、12月には衛星2波が統合され「NHK BS」になり、4K、8Kチャンネルと合わせて計3波体制になったほか、ラジオについても教育チャンネルがなくなった。さらに地方局の組織や人員の縮小も進み、もはや地元メディアと互角に取材競争はできないとの危惧の声も聞かれる。予算の大幅削減の中、ネットへの進出で支出が増加する分をチャンネル減や取材経費減で賄うという構図がはっきりしてきた。
受信料から放送事業の発展を振り返ってみると、ラジオに始まり、白黒テレビ契約にカラー料金をプラス、衛星料金を別建て徴収と、伝送路・画質・チャンネル数増加と付加価値を付けることでテレビの魅力を高め、事業を拡大してきた。
しかし、デジタル化で画質は上がっても、ハイビジョンや4Kになっても、それによる受信料引き上げは実現してこなかった。そして今回も、ネット料金は受信料とは別モノであることが強調され、放送総体の魅力をアップするというよりは、安い受信料もどき料金を設定して、テレビ非接触層を取り込みたいという希望的観測が垣間見える。
確かに〈料金の壁〉を解消することは必要ではあろう。日本社会総体の貧困化が進む中、情報に対する生活支出の枠が増えないとすれば、今や若者に限らず多くの一般ユーザーにとって「必需品」である動画配信サイトが千円足らずの中、それより高額のNHK受信料をさらに別に払うことへの抵抗感は小さくない。もっといえば、YouTubeなどのSNSはタダだ。ついでながら、新聞代が3千円を超えることは論外ということになりかねない(在京紙はさらに千円高い)。
ニュース価値
こうしてみるとNHKのみならず、新聞を含めた伝統的なサブスク型のニュース報道機関にいま求められているのは、いかに情報に価値があるかの社会的理解を一致協力して求めていくことだろう。冒頭に触れたように、法改正でNHKは遠慮なくネットで放送できるようになるが、それは自由を得たと喜んでいられる状況とは言えまい。むしろ「ネットで何をするか」よりも、「ネットを本来業務にする」ことだけが目的化した戦いを、2年以上にわたって繰り広げていたことの時間と労力の浪費を、総務省と共に報道界全体で反省する必要がある。
確かに、ネット上のオリジナルテキスト情報で、ただでさえ有料化の道が険しい新聞社のパイを奪うことを、今更することはない。記事を書きたいのならば、新聞社と共同取材・共同出稿をする途(みち)もあり得るし、番組化もできるだろう。番組にするのはハードルが高いので、気軽にネット配信をして、可視化されるアクセス数をみて満足することを繰り返していても、社会の情報に対する価値の向上にはつながらない。
あえて言えば、情報はタダの空気感を後押しする結果にもなる。それは新聞や民放の衰退にもつながるし、何よりNHK受信料の支払いも低下していく要因になるだろう。もちろんテキストベースでも、スマホ向けの斬新な表現手法を生み出し、そのノウハウを民間(民放や新聞、あるいはフリージャーナリスト)に公開していくようなことをするなら大歓迎だ。
同じ土俵であったり、隙間を狙っていたりしては、全体のニュースコンテンツの需要は低下する一方である。何より、数あるメディアの中で最も公共性を有する、法で守られた公共放送たるNHKには、日本社会の民主主義を発展させる法的・社会的義務がある。
放送100年そして新聞160年に向け、NHKのみならずニュースコンテンツをどうしていくかは、いま私たちに突き付けられている大きなテーマである。このまま市場に任せた場合、企業としては消滅しないにせよ、報道機関としての役割・機能は大きく低下する可能性がある。こうした市場原理に大きな影響を与えるのがNHKビジネスのありようであって、実は目前の放送法改正の真の命題は、ここにある。
(専修大学教授・言論法)
本連載の過去の記事は本紙ウェブサイトや『愚かな風』『見張塔からずっと』(いずれも田畑書店)で読めます。