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「早く沖縄にかえってきて…」 戦前のテニアンへの手紙、差出人は? 息子が情報提供を呼び掛け


「早く沖縄にかえってきて…」 戦前のテニアンへの手紙、差出人は? 息子が情報提供を呼び掛け 「大城昌次郎」さんから送られた手紙のコピー。食料品の高騰など窮状もつづられている
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 「拝啓 早く沖縄にかえってきて下さいませ」。戦前、南風原からテニアンに送られた手紙が見つかった。故大城盛助(せいすけ)さん=テニアンで1944年7月25日に死去=に宛てた手紙とみられ、県平和祈念資料館の職員が2月にオークションサイトで見つけた。送り主は「大城昌次郎」と記されているものの、盛助さんの息子の盛昌(せいしょう)さん(86)=南風原町=はこの人物を「誰か分からない」と話し、情報提供を呼びかけている。

 見つかった2通の手紙は、日米開戦の前後に送られた。消印は1941年5月17日と翌42年4月1日。宛先に「南洋テニアン島第四農場アシーガ拾壱番地 大城盛助様」、裏書きは「南風原村津嘉山四四一 大城昌次郎より」と記されている。

 41年の手紙には、七年忌の焼香に向け、送金のお願いや、沖縄に帰ってくるよう促す内容などが記されている。

大城盛助さんに宛てられた手紙のコピーを見せる盛昌さん=4月15日、南風原町

 大城盛助さんは、南風原村津嘉山出身。1923年ごろ、16歳の時にきょうだい5人と父親の保助さんとテニアンへ移住した。平和の礎の刻銘記録によると、「大城昌次郎」さんは、盛助さんの父親の保助さんと同年代で1885年に生まれ、沖縄戦で亡くなった。盛助さんや保助さんとの関係性は分からない。

 盛助さんは沖縄から来た雪さんと結婚、盛昌さんらが生まれた。魚を捕りサトウキビ栽培で生計を立てる比較的豊かな暮らしだった。しかし1944年、日本が「絶対国防圏」で要衝としたサイパン、テニアンなどに戦争が迫る。盛助さんも防衛召集され、飛行場建設にあたった。米軍は同年6月15日にサイパン、7月24日にはテニアンに上陸し、盛助さんは戦死した。当時6歳の盛昌さんはかすかに覚えている。「艦砲射撃が爆発すると真っ赤な破片が飛ぶ。その破片が5メートル先くらいに落ちた。畑では機銃掃射も受けた」。

 46年に母親ときょうだい、保助さんらと沖縄に引き揚げた。父親がいなかったため、中学の頃から米軍基地でハウスボーイとして働き、家計を支えた。幸せな暮らしとそれを奪った戦争。盛昌さんの心に恐ろしさは刻まれている。

 手紙は、県平和祈念資料館の企画展「太平洋戦争と南洋群島 ―日本に支配された南の島々―」を担当する神尾史扇(かんおひとみ)さんがオークションサイトで見つけた。19日までの企画展で展示されている。

(中村万里子)