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足引きずり支えられながらでも…肉親に「手を合わせたい」 南洋群島慰霊の旅次世代「思い継ぐ」 沖縄


足引きずり支えられながらでも…肉親に「手を合わせたい」 南洋群島慰霊の旅次世代「思い継ぐ」 沖縄 故・多和田眞清さんの写真とともに、南洋群島慰霊の旅に出発する(左から)眞久さん、冨名腰清子さん、山内幸代さん=30日、那覇空港
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 旧南洋群島での戦争で犠牲になった県出身者らを追悼する「南洋群島・慰霊と交流の旅」は、高齢化した遺族らが年々減り「今年が最後(の参加)」という声も聞こえる。当時子どもだった体験者もすでに80代後半~90代前半。ただ、亡き肉親への思いは尽きず、足を引きずりながら出発する姿も見られた。参加を支える子や孫、めいやおいらは「自分たちが継いでいかなければ」という思いを強めている。

 両親と姉、弟を亡くした多和田眞久(しんきゅう)さん(87)=那覇市=はめい2人に誘われ、40年以上ぶりに訪問を決めた。めいは、一緒に生き延びた2歳下の弟眞清(しんせい)さんの娘の冨名腰清子さん(56)と山内幸代さん(53)で、3年前に他界した眞清さんの遺影を持っていく。

 戦前、移住した祖父の呼び寄せで農業を営み、平穏に暮らしていた一家。1944年6月、サイパンに米軍が上陸し、当時7歳の多和田さんは祖父母と両親、4人のきょうだいと壕(ごう)を転々とし、山中を逃げた。死体がそこら中に転がっていた。姉と父は銃弾などに当たって命を落とした。

 米軍に捕まり、胸に重傷を負っていた母は病院に搬送され、別れた。待っても帰ってこなかった。程なくして当時1、2歳だった末っ子の弟も栄養失調で亡くなった。多和田さんは「できればまた行きたいけど、体力的に今回が最後かも。おいやめいもたくさんいて、元気でやっているよと報告したい」。眞清さんの娘の山内さんは「つらいことも多かっただろうが、父とおじは力を合わせて生きてきた。亡くなった家族に手を合わせたい」と待ち望む。

「今年が最後だろう」と語る兼城賢愛さん

 両親と姉、妹を亡くした兼城賢愛さん(90)=うるま市=はこれまで25回ほど参加してきた。ただ、「来年からは来られないだろう。85歳の時からもう最後と思っていたけど、子どもたちの支えでここまで来られた」と感謝を語る。

 44年当時は10歳。父は5歳の弟、母は2歳の妹を背負い、北へ逃げた。いつの間にか両親とはぐれ、日本兵や避難民を追い、一人で逃げ続けた。弟とは収容所で再会できたが、両親と姉妹の行方は分からない。息子の次男(つぎお)(61)さんは「父の世代が行けなくなっても僕らが行き続けないと」と思いを語る。

 次男さんら子や孫の世代が中心となり、2022年に「旧南洋群島帰還者会を継承する会」も発足。「南洋群島帰還者会」を引き継いでいく。次男さんは「いずれは平和の礎(いしじ)のような刻銘板も作れれば、故人を身近に感じられるのでは」と話す。

 両親と妹を亡くした宮里善孝さん(86)=沖縄市=は、機会があれば何度も現地に足を運んできた。当時6歳。ガマの中でも艦砲射撃のひどい爆風を感じた記憶がある。「犠牲になるのは女や子どもだ」。弱い者の命を奪う戦争を憎む。今も世界で絶えない戦争に心を痛め、手を合わせに行く。

 (中村優希、中村万里子)