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被爆の語り部「礎」に刻銘 疎開先で体験の比嘉さん、平和願った生涯 遺族が申請 沖縄


被爆の語り部「礎」に刻銘 疎開先で体験の比嘉さん、平和願った生涯 遺族が申請 沖縄 生前、被爆体験の語り部として活動した比嘉幸子さん=2014年8月2日、那覇市
この記事を書いた人 Avatar photo 宮沢 之祐

 今年、平和の礎(いしじ)に追加刻銘される比嘉幸子さんは13歳の時、疎開先の広島で被爆した。終戦後、沖縄の被爆者運動をけん引してきた。昨年91歳で亡くなり、遺族が「平和のために活動してきたことを忘れないために」と刻銘を申請した。

 「みんなの分まで生きて、頑張るからね」

 戦後50年の頃、母校の広島女学院の慰霊碑を訪ね、比嘉さんは語りかけた。長女の森久美子さん(62)=東京都=は、優しかった母の決意の言葉が今も耳に残る。

 比嘉さんは那覇で生まれ1944年、父の故郷の広島市に家族と共に疎開。45年8月6日は発熱し、家にいた。登校した同級生の多くが原爆で亡くなった。比嘉さんの母、丸茂ツルさんは被爆し、ひどいやけどを負い、左耳の一部を失った。肉片が落ち、骨が見えた。医師にも見放されたが、比嘉さんは懸命に看病した。

 その後、親子は沖縄へ。石川市(現うるま市)に住んでいた59年、米軍ジェット機が隣の宮森小学校に墜落。惨事を目撃することになった。

 比嘉さんは結婚して3人の子どもを育てた。2007年、本紙が掲載した比嘉さんの投稿には、心の内がつづられている。「『なぜ自分だけが生き残ったのか』と自問しながら生きてきました」

 被爆体験の語り部を引き受け、県原爆被爆者協議会の副理事長や、沖縄原爆展を成功させる会の代表を務めた。

 共に原爆展の開催に取り組んだ野原郁美さん(69)は「とても穏やかな人だったが、原爆に関しては『許せない』と一徹だった」と振り返る。

 森さんは母の平和への思いを受け継ぎたいと考え、弟2人と話し合って追加刻銘の申請を決めた。「平和を願い続けた母の人生を、名前を載せることで残せる」 

(宮沢之祐)