有料

【地図あり】名護・世冨慶で20本超の溝 「護郷隊」関与の陣地跡か 60年代発見、未調査のまま 沖縄


【地図あり】名護・世冨慶で20本超の溝 「護郷隊」関与の陣地跡か 60年代発見、未調査のまま 沖縄 名護市世冨慶の丘陵地に日本軍が構築したとみられる陣地の跡=7日、名護市世冨慶
この記事を書いた人 Avatar photo 池田 哲平

 【名護】名護市世冨慶の丘陵で、沖縄戦で日本軍が構築したとみられる陣地の跡が、未調査のまま存在していることが23日までに明らかとなった。見つかった場所は民有地で、名護市文化財係によると、調査記録は残っていない。沖縄戦の研究者は、活動記録などから、沖縄戦で少年らによって組織した護郷隊が関係している可能性を指摘する。戦後79年の「慰霊の日」を迎えるが、激しい戦時下の爪痕は今もなお、沖縄の各地に刻まれている。 

 陣地のような跡は、名護市世冨慶の大筋原と呼ばれる場所で見つかった。東側の崖っぷちに向かい、深さが約90センチ~1メートル、幅が約60~70センチの溝が20本以上、頂上付近の約100メートルの範囲にわたって掘られている。溝は反対側の斜面に掘られた大きな穴につながっている。溝は監視や攻撃などに使い、穴は兵士らが休憩のために使っていた可能性がある。

 土地所有者の男性によると、1960年代に琉球政府が土地の境界明確化のために丘を登った際、陣地のような跡を発見した。だが、その後は詳細な調査は実施されていないという。30年ほど前には穴の近くで、ビール瓶や薬の瓶などを見つけたこともあった。男性は「(陣地の跡が)どのような経緯で造られたのかいくつも資料を調べたが、記録には残っていないようだ。何なのか知りたい」と話した。

 沖縄戦研究者で、沖縄国際大非常勤講師の川満彰さんによると、形状などから、敵から身を守り射撃などをする「散兵壕」と、陣地間を移動する「交通壕」の両方の特徴がみられる。川満さんは「護郷隊が交通壕を堀っていたという証言が残っている。見つかった陣地のようなものは、記録にないが、護郷隊が近くの東江原にいたという証言もあり、発見された遺構と関係している可能性がある」と指摘し、詳細な調査が必要だとの見解を示した。

(池田哲平)


護郷隊 徴兵年齢に達していない10代の少年を集め、1944~45年にかけて、ゲリラ戦を目的に結成された遊撃部隊の秘匿名。2部隊が結成され、隊長には陸軍中野学校出身者が就いた。第一、第二を合わせて、千人が集められ、遊撃戦を想定した射撃訓練や橋りょう爆破訓練などを実施した。地元を知る少年らで地の利を生かす狙いがあったが、全く知らない土地に配置された少年も多く、約160人が亡くなった。