prime

「嘉義丸」と沈んだ養父、調べた最期は闇のまま「戦争や疎開さえなければ」<海鳴りやまずー撃沈船舶と対馬丸80年>5


「嘉義丸」と沈んだ養父、調べた最期は闇のまま「戦争や疎開さえなければ」<海鳴りやまずー撃沈船舶と対馬丸80年>5 嘉義丸の乗員だった養父の最期を調べた佐渡山千鶴子さん=11日、恩納村恩納
この記事を書いた人 Avatar photo 島袋 貞治

闇夜に海鳴りが響いていた。2022年11月深夜、奄美―沖縄本島の航路。佐渡山千鶴子さん(88)=恩納村恩納、旧姓・兼田=はフェリーの甲板から花をささげた。「さぞ苦しかっただろうに」。養父で、おじの外間善太郎さんに手向けた。1943年5月26日、航路船「嘉義丸」(かぎまる、2344トン)が米軍に撃沈された。当時45歳の養父は一等司厨(しちゅう)員だった。

 撃沈される前年の3月25日、日本政府は戦時海運管理令を施行し、戦時下であらゆる船舶を自由かつ効率的に運用できるようにした。徴用した民間船を陸軍と海軍の作戦で使用したほか、同4月に設置した船舶運営会に貸し下げた。船舶運営会は政府の計画に従い、民需用に充てた。沖縄と日本本土間の定期航路で米軍に撃沈された船舶は同会管理下の5隻。多数の県民被害を出した最初の船が嘉義丸だった。

 嘉義丸は鹿児島から寄港地の奄美大島名瀬港に航行していた午前10時41分、米潜水艦ソーリーの魚雷攻撃により沈没した。乗客551人のうち、沖縄県出身者283人を含む321人が命を奪われた。奄美大島では救助された人が手当てされ、遺体が安置された。政府はその事実を語ることを禁じた。

 年を重ねた佐渡山さんは近年、養父の最期を知りたいと願った。戦後に聞いたのは「船員だった」とだけ。対馬丸記念館を訪ねて職員に調べてもらい、養父が嘉義丸の乗員と知った。嘉義丸の記事を掲載した本紙や奄美大島の自治体に問い合わせたり、生存者に直接会ったりして、養父の足跡を調べた。しかし、答えにたどり着けなかった。当時のかん口令が真相に近づくことを阻んだと感じた。奄美沖での追悼は区切りだった。

 3歳から、外間さんとその妻アイ子さんと大阪で暮らした。アイ子さんは実母の姉に当たる。おば夫婦を実の両親と信じた。3人で歩いたことが、子ども時代の一番幸せな記憶だ。

 6歳になると、実親が暮らす台湾に突如戻された。養父母と台湾に行き、寝ている間に養父母は消えていた。「いつ迎えに来るの」。台湾の自宅前で待つ日が続いたが、やがて諦めに変わった。台湾に戻った時期は、1941年12月の真珠湾攻撃の前後。米国と開戦するまでに戦争が拡大する中、実親と暮らした方がいいと大人たちは考えたかもしれない。

 台湾では実の両親、長女である佐渡山さん、4人のきょうだいの計7人で暮らした。台中や蘇澳などに住み、警察や日本兵がスパイ活動を警戒していたことを覚えている。近隣の女性は干した下着の色で敵と交信していると疑われ、連行された。

 台湾で家族も失った。44年11月、佐渡山さんは当時1歳の弟・修三さんを背中におぶっていたところ、ぐったりする修三さんに周囲が気付いた。修三さんは栄養失調で亡くなったとみられる。同年10月10日の10・10空襲後には、祖母の兼箇段マカトさんが疎開で那覇から台湾にやってきたが、わずか2カ月後にマラリアで命を落とした。

 現在、新たな疎開ともいえる国民保護計画では、県外への住民移送が再び取りざたされている。重なる戦時中の記憶。「戦争や疎開さえなければ」。佐渡山さんは胸騒ぎを覚える。

 私権を制限し、情報を統制する秘密保護法制なども進む。知りたかった養父の最期は結局、闇に包まれたままだ。「養母も親族も、誰も養父の最期を知らない。かわいそうでならない」。奄美で聞いた海鳴りが今も響いている。

 (島袋貞治)


<ニュース用語>嘉義丸

戦前、沖縄や奄美から本土に出稼ぎに行っていた人たちなどが、太平洋戦争の戦況の悪化を知り、家族を心配して帰郷するためなどに利用した軍の徴用船。1943年5月19日、神戸港を出発し、鹿児島に寄港。その後、奄美、沖縄に向け航海していたが、同26日午前10時33分、奄美北方沖で米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没した。死者行方不明者は321人。生存者は約100人といわれる。