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「生き残った者の務め」 遺族会と行動を共に 記念館建設を実現<海鳴りやまずー撃沈船舶と対馬丸80年>


「生き残った者の務め」 遺族会と行動を共に 記念館建設を実現<海鳴りやまずー撃沈船舶と対馬丸80年> 対馬丸撃沈後、兄が祖父母に宛てた手紙を手にする髙良政勝さん=1日、那覇市
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 4歳の時、家族9人を一度に失った。両親の顔もおぼろげな記憶しかない。「なぜ自分は生き残ったのか。対馬丸のことをやるために生かされたと思っている」。対馬丸撃沈事件の生存者で、対馬丸記念会代表理事の髙良政勝さん(84)は、かみしめるように語る。

 両親やきょうだいで那覇市牧志で牛乳屋を営んでいた。家業のためにと、兄の政弘さんは獣医師になるため、鹿児島高等農林学校(現・鹿児島大学農学部)に進学していた。両親は政弘さんに会いたいと疎開を決め、家族11人で対馬丸に乗船した。残されたのはきょうだい3人。戦後は祖父母らに育てられ、髙良さんは歯科医師になった。

 遺族に衝撃が広がったのは1997年12月。鹿児島県トカラ列島・悪石島沖の海底で、撃沈された対馬丸の船体が53年ぶりに確認された。船体の内部調査と遺骨収集への期待が高まった。だが、内閣府は98年、「技術的な限界」を理由に引き上げや内部調査は「困難」と説明した。

 説明会後、上原妙さん(93)は報道陣に語った。「このままでは諦めがつかない」。那覇国民学校高等科1年で乗船し、救助された。慰霊祭に行くたび遺族から「私の子どもも生きていたらこれくらいになっていた」と言われ、足を運ぶのをやめた時期もある。それでも「生き残った者の務め」と対馬丸遭難者遺族会と行動を共にしてきた。

「(事件を)忘れられると大変、と夢中だった」と精力的に国に慰謝事業を求めてきた当時を振り返る上原妙さん=7月30日、那覇市

 2001年に遺族会が公益財団法人対馬丸記念会となり、喜屋武盛栄会長から会長のバトンを渡された。船体を引き上げられない代わりに記念館の建設構想が浮上し、建設費のめどがたたないと報じられる中、橋本龍太郎沖縄担当相(当時)にも直談判し、「死なせたのは国の責任でしょう」と詰め寄った。「夢中だった」と薄れる記憶をたどり、振り返る。「戦争って忘れようと思っても忘れられない」

 上原さんから会長を継いだ髙良さん。撃沈から60年となる2004年、那覇市若狭に対馬丸記念館が開館した。「経営的にかなり厳しかったが、サポートしてくださる人に恵まれた20年でもあった。平和を伝導する施設であってほしい」。「有事」を理由に住民を県外に避難させる国民保護計画が進むなど、沖縄の現状には危機感を募らせる。「対馬丸が疎開に出た時と似ている。戦争が起きれば、弱い者から犠牲になる」

 新たな動きもある。25年度、政府は沈没した対馬丸の水中調査を検討している。髙良さんは「遺族としては国が調査してくれることで、ある程度なぐさめになる」と強調する。詳しい調査方法や調査結果の活用などは明らかになっていないものの「今回の調査が他の戦時撃沈船舶にも良い効果が波及するといい」と期待を寄せた。

(前森智香子、中村万里子)